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父親の死後に作曲された『レクイエム』は彼の代表作の1つである。他の管弦楽や声楽を含んだ大規模作品として、歌劇『ペネロープ』、『プロメテ』、組曲『マスクとベルガマスク』、同『ペレアスとメリザンド』などがある。

しかし、むしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多い。それぞれ2曲ずつのピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタと、各1曲のピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲がある。

また『バラード 作品19』、『主題と変奏 作品73』、『舟歌』、『夜想曲』、『即興曲』、『ヴァルス・カプリス』、『前奏曲 作品109』など生涯にわたって多くのピアノ曲を作った。

歌曲でも『夢のあとに』(Après un rêve)、『イスファハーンの薔薇』(Les roses d'Ispahan)、『祈り』(En prière)、ヴェルレーヌの詩に曲をつけた『月の光』(Clair de lune)、20篇のうち9篇を選んで作曲した『優しい歌』(La Bonne Chanson)などかなりの数の歌曲を残している。

晩年には、難聴に加えて高い音がより低く、低い音がより高く聞こえるという症状に悩まされながら作曲をつづけた。ピアノ五重奏曲第1番以降の作品は、そうした時期のもので、次第により簡潔で厳しい作風へと向かっていった。

肺炎のためパリで死去。マドレーヌ教会で『レクイエム』の演奏されるなか国葬が行われ、パリのパッシー墓地に葬られた。


[編集] フォーレの音楽の特徴

[編集] 音楽史的な位置
フォーレは、リスト、ベルリオーズ、ブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、無調の作品が数多く書かれ、微分音、十二音技法などが試みられていたころに晩年を迎えている。なかでも、調性崩壊の引き金を引いたワーグナーの影響力は絶大で、同時代の作曲家は多かれ少なかれ、ワーグナーにどう対処するかを迫られた。

こうした流れのなかで、フォーレの音楽は、折衷的な様相を見せる。ワーグナーに対しては、ドビュッシーのようにその影響を拒否するのでなく、歌劇『ペネロープ』でライトモティーフを採用するなど一定の影響を受けつつも、その亜流とはならなかった。形式面では、サン=サーンスの古典主義に引きこもることはしなかったが、その作品形態は当時の流行を追わず、古典主義的な楽曲形式を採用した。調性においては、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。

このように、フォーレは音楽史上に残るような新たな様式を打ち立てたり、「革新」をもたらしたりしてはいない。また、フォーレの音楽は、劇的表現をめざすものではなかったので、大規模管弦楽を擁する大作は必然的に少ない。ただし、和声の領域では、フォーレはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしている。とくに、調性と旋法性の融合という点において、フォーレの和声には独自性が見られ、まさに時を越えた作曲家なのである。


[編集] フォーレの音楽の変遷
フォーレの音楽は、便宜的に初期・中期・晩年の三期に分けられることが多い。初期の代表作として、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品13)やピアノ四重奏曲第1番(作品15)があるが、この時期の作品は親しみやすく、とくにヴァイオリン・ソナタ第1番は、フォーレの全作品中おそらくもっとも演奏機会の多い曲である。夜想曲では第1番から第5番、舟歌では第1番から第4番が相当する。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっている。旋律を歌わせる際にはユニゾン、伴奏形には装飾的かつ流動的なアルペジオが多用される。ユニゾンとアルペジオは、フォーレの生涯にわたって特徴的に見られるが、この時期のそれは、もっぱら音色の効果や装飾性の域を脱するものではない。チェロとピアノのための『エレジー』(作品24)では、中期を予想させる精神性がかいま見られる。

フォーレの中期あるいは第二期は、ピアノ四重奏曲第2番(作品45)、『レクイエム』(作品48)、『パヴァーヌ』(作品50)などが作曲された1880年代の後半から、ピアノ五重奏曲第1番(作品89)が完成した1900年代前半までと見られ、他に『主題と変奏』(作品73)、『ペレアスとメリザンド』(作品80)などがある。夜想曲では第6番から第8番、舟歌では第5番から第7番が相当する。初期の曲に見られる、輝かしく外面的な要素は、年を経るに従って次第に影を潜め、より息の長い、求心的で簡素化された語法へと変化していく。初期の音楽と比べて、これをフォーレの「後退」とみる評者もある。また、ひとつひとつの音を保ちながら、和声をより流動的に扱うことにより、拍節感は崩れ、内声部は半音階的であいまいな調性で進行するようになる。こうした微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。

歌劇『ペネロープ』やヴァイオリン・ソナタ第2番(作品108)が作曲された1900年代後半からは、晩年と見られる。夜想曲では第9番以降、舟歌では第8番以降。耳の障害が始まり、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていく。しかし、この時期の一連の室内楽作品は、壮大な規模と深い精神性を湛えた傑作群である。ピアノ五重奏曲第2番(作品115)やピアノ三重奏曲(作品120)では、冒頭にピアノによるアルペジオが見られるが、もはや華やかさとは無縁の、単純化された音型であり、弦のユニゾンもまた、抽象的な高みへの追求あるいは収斂性として働いている。最晩年に作曲された弦楽四重奏曲(作品121)は、唯一ピアノを含まない室内楽作品であるが、輪郭のはっきりとしたピアノの打音が退けられた結果、音楽はより幽玄な情緒を帯びており、ときに晦渋な作風を印象づける。


[編集] アール・ヌーヴォーとの関連
フォーレ研究家として知られるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書『ガブリエル・フォーレ』のなかで、同時代の文学者マルセル・プルーストがフォーレの音楽に魅了されていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォーに属する芸術家として位置づけた上で、「そのまがりくねり互いに絡み合った長いフレーズと常時現れる花にまつわる主題は、まさに1900年の芸術を象徴するものである。」と述べている。

一般に、アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭の装飾美術・デザインに適応される様式概念であり、ネクトゥーの説はこれを文学、音楽に敷衍させたものといえる。この指摘は、アール・ヌーヴォーのもつ装飾性や、コントラストでなく曲線重視といった表現性を、フォーレの音楽性と通じるものとしてみている。この観点からは、フォーレの別の側面が見えてくることも事実である。装飾的な音型がメロディーに同化している点で、初期の歌曲『夢のあとに』がまず挙げられる。さらに、「舟歌」をはじめとして、アルペジオへのフォーレの傾斜は、晩年まで見られる特徴である。ただし、「装飾音」であっても、その効果あるいは意図するところは、すでに述べたように、初期と晩年では相当に違っている。


[編集] フォーレは「サロン音楽」の作曲家か
フォーレは、当時のサロンで受け入れられたため、ドビュッシーを初めとして、フォーレの作品を「サロン音楽」と矮小化して受けとめる風潮も現在まで存在する。もちろん、フォーレの音楽に、サロンで受け入れられるべき要素が含まれていることは否定できない。とはいえ、フォーレの音楽は、とくに中期から晩年にかけてのそれは、規模の小さな作品においても、ただ柔らかく上品で、洗練されているというだけで終わってはいない。ごく自然に流れる音の流れが、実は伝統的なあらゆる手法を駆使した、独自の緻密な構成によっている。

1906年に、フォーレは妻にあてた手紙でピアノ四重奏曲第2番のアダージョ楽章について触れ、「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」と書いている。また、1908年には次男フィリップに「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と書き残している。このように、フォーレの音楽には、現実を超えた高みへの憧れが盛り込まれ、これに耳を傾ける者の感動を誘うのである。

フォーレは死の2日前、二人の息子に次のような言葉を残している。「私がこの世を去ったら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ……」


[編集] 教育者としてのフォーレ
フォーレは1896年にマスネの後任としてパリ音楽院の作曲科教授となっており、その門弟にはモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス、ジョルジェ・エネスクらがいる。

ラヴェルがローマ大賞を落選した、いわゆる「ラヴェル事件」により1905年にはテオドール・デュボワの後任として音楽院院長となり(1920年まで)、音楽院改革を行った結果《ロベスピエール》とあだ名されるようになったが、このときの改革のうち入学前の生徒の教授との癒着を避けるため、音楽院の外部者に入学審査を行わせたことは、現在でも入学審査に必ず音楽院の外部者が加わっているというかたちで受け継がれている。このように彼は優れた音楽教育者としても知られている。


[編集] フォーレの女性関係
『レクイエム』で知られ、教会オルガニストであったことから敬虔なカトリック教徒というイメージが強いが、フォーレ自身、必ずしもそうでないことを認めている[1]。

実際、若いころのフォーレは享楽的な傾向を持ち、1883年に彫刻家エマニュエル・フルミエの娘、マリーと結婚した後も、90年代前半はのちにドビュッシー夫人となったエンマ・バルダックと、後半はイギリスの楽譜出版社の夫人のアディーラ・マディソンと関係を持ち、そして1900年『プロメテ』初演時にアルフォンス・アッセルマン(ハーピスト・作曲家)の娘、マルグリット・アッセルマンと出逢い、そののち彼女を生涯旅行などに付き添わせるといった愛人たちとの交際を続けた。


[編集] 主要作品
以下「Op.」以下の数字は作品番号を示す。


[編集] 管弦楽曲
カリギュラ Op.52 (Caligula,1888年)
舞台音楽の最初の作品。大デュマの同名の悲劇再演のために小デュマから依頼を受け、わずか数ヶ月で書き上げた。劇付随音楽としての初演は1888年11月8日。その後、演奏会用の版をフォーレ自身が作成し、翌年の4月6日に国民音楽協会の演奏会で初演された。
ペレアスとメリザンド Op.80 (Pelléas et Mélisande,1898年)
別項参照
マスクとベルガマスク Op.112 (Masques et Bergamasques,1919年)
【1. 序曲 / 2. パストラール / 3. マドリガル / 4. いちばん楽しい道 / 5. メヌエット / 6. 月の光 / 7. ガヴォット / 8. パヴァーヌ】
舞台音楽としては最後の作品。ただし、8曲中4曲はすでに作曲されていた他の作品を取り込んだもので、新たに作曲されたのは第1, 2, 5, 7曲のみ。旧作の第6曲、第8曲は単独で演奏され親しまれている。ルネ・フォーショワの台本による。初演は1919年4月10日モンテカルロ。詳細は別項参照。

[編集] 協奏曲
ピアノと管弦楽のためのバラード Op.19 (1880年)
全体は3部からなる。(Andante cantabile - Allegro moderato - Andante ただし第2部は出版譜によりAllegretto moderato)主調は嬰ヘ長調。全曲を通して3つの主題が執拗に反復されるだけの珍しい形式をとっている。初期の未熟さと才能の萌芽が同時に示された作品である。

[編集] 室内楽曲
ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89 (1903 - 06年)
【1. Molto moderato / 2. Adagio / 3. Allegretto moderato】
この作品を作曲していた当時、フォーレは聴覚範囲が狭まり高音と低音がピッチの違う音として聞こえるという聴覚障害に悩まされるようになった。そんな状態でありながらフォーレはこの精妙な和声の造化を創り上げたのだった。1906年3月、作曲者のピアノ、イザイの弦楽四重奏団の演奏で初演され、イザイに献呈された。作曲者の手紙によると、イザイはこの曲の若々しさ、純粋に音楽的であることに狂喜したという。
ピアノ五重奏曲第2番 ハ短調 Op.115 (1919 - 21年)
【1. Allegro moderato / 2. Allegro vivo / 3. Andante moderato / 4. Allegro molto】
1920年にフォーレは音楽院を辞職した。これにより作曲に充てられる時間は増えたものの、経済的な不安を抱え込むことになった。ロベール・ロルタのピアノとエッキャン四重奏団により行われた初演は大成功で聴衆全員のスタンディング・オベーションで迎えられ、批評家からも支持された。この作品は後輩のポール・デュカスに献呈された。
弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.121 (1924年)
【1. Allegro moderato / 2. Andante / 3. Allegro】
フォーレ最後の作品。ピアノを含まない唯一の室内楽作品でもある。そのため深い諦念の響きが色濃い。フォーレはこの作品を弟子に見せ、「君がよく見て、おかしいところがなければ発表してくれ」と頼んだといわれる。彼の謙虚な人柄を物語るエピソードである。初演は作曲者の死後1925年6月12日にパリ音楽院で行われた。
ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 Op.15 (1879年)
【1. Allegro molto moderato / 2. Scherzo / 3. Adagio / 4. Allegro molto】
マリアンヌ・ヴィアルドとの婚約が一方的に破棄され傷心の時期に書かれた作品。長いユニゾンや突然の転調といった音色や調性上の実験的な試みが多くなされている。初演は1880年2月14日に国民音楽協会のコンサートで行われた。
ピアノ四重奏曲第2番 ト短調 Op.45 (1886年)
【1. Allegro molto moderato / 2. Allegro molto / 3. Adagio non troppo / 4. Allegro molto】
フォーレが円熟期を迎えた時期の作品で、名作『レクイエム』の直前に書かれている。楽想、音色の色彩感、展開、いずれも申し分ない豊かさをたたえた名作である。1886年1月22日国民音楽協会のコンサートで初演された。
ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120 (1922 - 23年)
【1. Allegro ma non troppo / 2. Andantino / 3. Allegro vivo】
フォーレ自身はこの作品を「小さなトリオ」と呼んだが、弟子のフローラン・シュミットは「これこそが音楽だ。そして音楽以外の何者でもない。」と評している。公開での初演は1923年6月、アルフレッド・コルトー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルスにより行われた。モーリス・ルーヴィエ夫人に献呈された。
ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 Op.13 (1876年)
【1. Allegro molto / 2. Andante / 3. Allegro vivo / 4. Allegro quasi presto】
歌曲・ピアノ曲以外で初めての本格的な作品。マリアンヌ・ヴィアルドとの恋愛が反映された幸福な作品。マリアンヌの弟ポール・ヴィアルドに献呈されている。初演は、1877年1月27日に国民音楽協会の演奏会でマリー・タヨーのヴァイオリン、作曲者のピアノで初演された。さらに翌年パリ万博の催し物としても演奏されたが、当時はあまり評判にならなかった。しかしサン=サーンスは手紙でフォーレの才能を賞賛している。
ヴァイオリン・ソナタ第2番 ホ短調 Op.108 (1916 - 17年)
【1. Allegro non troppo / 2. Andante / 3. Allegro non troppo】
1916年8月16日付けの手紙で妻に、この作品に着手したことを知らせている。第1番とは40年を隔てて作曲されたこの作品は、第1番とは対照的にフォーレ晩年の簡潔で気品のある書法で書かれている。1917年11月10日国民音楽協会の演奏会でリュシアン・カペーのヴァイオリン、アルフレッド・コルトーのピアノで初演された。
チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109 (1917年)
【1. Allegro / 2. Andante / 3. allegro commodo】
ヴァイオリンソナタ第2番の完成にひきつづいて作曲され、1918年1月にアンドレ・エッキングとアルフレッド・コルトーにより初演された。第1楽章は、フォーレの作品には珍しい荒々しさが見られる。瞑想的な第2楽章を経た第3楽章は控えめだが長大な旋律でチェロの魅力にあふれている。
チェロ・ソナタ第2番 ト短調 Op.117 (1921年)
【1. Allegro / 2. Andante / 3. Allegro vivo】
1921年にフォーレはナポレオン1世没後100年記念式典のための『葬送歌』を吹奏楽用に作曲、これをチェロソナタ第2番の中間楽章に転用した。1922年5月、ジェラール・エッキングとアルフレッド・コルトーによって初演された。ヴァンサン・ダンディは、初演の翌日「一晩たったいまでも、君の美しいチェロソナタに魅了されつづけている。アンダンテは表現力に富み、真の傑作だ」とフォーレに書き送っている。第1楽章のなだらかな曲想のためか、第1番より演奏機会が多い。
シシリエンヌ ト短調 Op.78 (Sicilienne,1898年)
チェロとピアノのための作品。後にペレアスとメリザンドに転用。
『塔の中の奥方』(Une châtelaine en sa tour)イ短調 Op.110 (1918年)
ハープ独奏曲。

[編集] ピアノ曲
『主題と変奏』(Thème et Variations)嬰ハ短調 Op.73 (1895年)
主題と11の変奏からなる。1896年12月、レオン・ドゥラフォスによって初演された。夜想曲第6番、舟歌第5番と同時期の作品であり、これらとともに、フォーレの最も充実したピアノ作品とされる。コルトーは、「音楽的な豊かさ、表現の深さ、器楽的内容の質の高さからして、あらゆる時代のピアノ音楽のうち、希有で最も高貴な記念碑のひとつ」と激賞している。
ピアノ組曲『ドリー』(Dolly)Op.56 (1893 - 96年)
【1. 子守歌 / 2. ミ-ア-ウ / 3. ドリーの庭 / 4. キティー・ヴァルス / 5. 優しさ / 6. スペインの踊り】
4手ピアノのための作品。「ドリー」とは、フォーレが可愛がっていた子供で、この作品を献呈されたエレーヌ・バルダックの愛称である。エレーヌはフォーレの子であるとする説が有力。愛らしいメロディからなる小品集で、子供の世界を描いている点でシューマンの『子供の情景』やドビュッシーの『子供の領分』を連想させる。ちなみにドビュッシーが『子供の領分』を書いた時に題材にしたシュウシュウという愛称の子供は、エレーヌの母親エンマがドビュッシーと再婚してもうけた子供で、したがって、本作品と『子供の領分』とはまさしく姉妹作ということになる。管弦楽版(アンリ・ラボー編曲)、ピアノ独奏版などの編曲でも親しまれている。
ヴァルス・カプリス 全4曲
【1. イ長調 Op.30 / 2. 変ニ長調 Op.38 / 3. 変ト長調 Op.59 / 4. 変イ長調 Op.62】
文字通り才気に満ちたワルツ集である。第1、2番はサロン的側面を持つが、第3、4番は緻密な構成をもち入念な主題処理が行われる、ショパンが開拓した芸術的なピアノ・ワルツの系譜に連なる芸術作品である。
即興曲 全5曲
【1. 変ホ長調 Op.25 / 2. ヘ短調 Op.31 / 3. 変イ長調 Op.34 / 4. 変ニ長調 Op.91 / 5. 嬰ヘ短調 Op.102】
上述の5曲にハープのために書き下ろされピアノに編曲された1曲(変ニ長調、Op.86bis)を含め6曲とカウントすることもある。第3番までと後期に書かれた2曲との間にはそのスタイルに大きな隔たりがある。第3番までの3曲はサン=サーンスの手により初演されている。
夜想曲 全13曲
【1. 変ホ短調 Op.33-1 / 2. ロ長調 Op.33-2 / 3. 変イ長調 Op.33-3 / 4. 変ホ長調 Op.36 / 5. 変ロ長調 Op.37 / 6. 変ニ長調 Op.63 / 7. 嬰ハ短調 Op.74 / 8. 変ニ長調 Op.84-8 / 9. ロ短調 Op.97 / 10. ホ短調 Op.99 / 11. 嬰ヘ短調 Op.104-1 / 12. ホ短調 Op.107 / 13. ロ短調 Op.119】
夜想曲の作曲時期はフォーレの活動時期のすべてにわたっている。第13番はピアノ作品の掉尾を飾る曲である。ピアニストのマルグリット・ロンは第6番を「フォーレの最も美しいインスピレーション」と評している。この第6番と第5番との作曲時期には10年の隔たりがあり、フォーレのスタイルの変化を明らかに反映している。
舟歌 全13曲
【1. イ短調 Op.26 / 2. ト長調 Op.41 / 3. 変ト長調 Op.42 / 4. 変イ長調 Op.44 / 5. 嬰ヘ短調 Op.66 / 6. 変ホ長調 Op.70 / 7. ニ短調 Op.90 / 8. 変ニ長調 Op.96 / 9. イ短調 Op.101 / 10. イ短調 Op.104-2 / 11. ト短調 Op.105-1 /12. 変ホ長調 Op.105-2 / 13. ハ長調 Op.116】
メンデルスゾーンの『無言歌』やショパンにも作例はあるが、生涯にわたって13曲もの『舟歌』を作曲したのはフォーレ一人である。6/8または12/8拍子の一定のリズムにのってゆったりとした旋律が繰り返される中、さざ波や水しぶきそれに反射する光のきらめきのような細やかなパッセージを加える舟歌の形式がフォーレのテンペラメントによく合致したのであろう。第4番まではヴェネツィアを訪れる前に作曲されており、フォーレの憧れとしてのイタリアを描き出したものといわれている。
前奏曲集 Op.103 全9曲 (1910年)
【1. 変ニ長調 / 2. 嬰ハ短調 / 3. ト短調 / 4. ヘ長調 / 5. ニ短調 / 6. 変ホ短調 / 7. イ長調 / 8. ハ短調 / 9. ホ短調】
フォーレがこの前奏曲集を作曲した時期は、ドビュッシーが前奏曲集第1巻を作曲した時期と重なっている。ドビュッシーの作品と異なり、フォーレは作曲意図の手がかりを残していない。フォーレは1910年の1月に最初3曲の前奏曲を出版者に渡しており、同じ年の秋にかけて残りの6曲を作曲した。


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GARNET CROW(ガーネット クロウ)は、1999年に結成された日本のGIZA studio所属のロックバンド。音楽制作会社ビーインググループ所属の音楽クリエイターを中心とした男女4人で構成され、ネオアコを主軸とした楽曲を制作している。2002年まではライブを行わずテレビ番組にも出演しなかった。代表曲は「flying」「夢みたあとで」「スパイラル」など[2]。
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の深い紅色にかけて深みのある音楽を志向する意を「GARNET」の語に込め、それに言葉の響きの良さを求めて「CROW」の語を付加したことに起因する。また日本語訳すると『深紅のカラス』という言葉になり、この言葉の不気味さが心に残る点もあわせて考慮された[3]。

メンバーは中村由利、AZUKI七、岡本仁志、古井弘人の男女4人からなる。リーダーは古井弘人であるが、公式ウェブサイトなどでは、ボーカルの中村由利を筆頭とした順序で紹介されている。結成は1999年、倉木麻衣の全米インディーズデビュー時のデモテープ作成にメンバー4人が携わり[4]、スタジオ制作を通して意気投合したことをその契機とする[5]。当時中村を除く3人は、既にビーインググループ内で他アーティストへの楽曲提供、サポートを中心とした活動を行っており、新人は中村のみであった。中村自身は音楽ディレクターのような表に出ない仕事を志向していたが、周囲からの薦めがあり作曲・ボーカル担当になった[6]。メンバーについての詳細は後述のメンバーの節を参照のこと。

楽曲制作においては役割分担が明確にされており、作曲・作詞・編曲といった楽曲制作上の根幹部分を、ほとんどの楽曲においてメンバー自身が行っている。特に中村の曲とAZUKI七の詞は、全楽曲の核として位置付けられている[3]。作品はネオアコを主軸とし、デビュー当初、彼らは自身の音楽性を「21世紀型ネオ・ネオアコ」と称した[7]。1999年のデビューから約2年半、ライブを行わずCD制作を活動の中心としていたが、2002年に初のライブを行う。逆援助交際
それ以降ネオアコだけにとどまらない音楽性の広がりをみせ、ライブを経験したことでそれを意識した楽曲制作がなされたり[8]、ラテン音楽や[9]カンツォーネなどの要素も楽曲に取り入れた[10]。詳しくは後述の楽曲制作、評価・音楽性の各節を参照のこと。

2008年現在においてもメンバーの個々の経歴に非公開の部分がある。また、2002年のシングル『夢みたあとで』発売時までは、全くテレビ番組に出演しなかった。同じビーイング所属のアーティストがマスメディアへの露出を抑える点は、ビーイングのメディア・コントロール戦略によるものとされている[11]。ただし同グループ逆援助交際
内であっても、ライブを行わない小松未歩やテレビ番組に出演しなくなったZARDと比べると程度に差がある。2002年以来、ライブは三大都市圏を中心に20回以上の公演を行っており、同年以降テレビの音楽番組にも出演している。メンバー自身はテレビ出演について、非常に緊張するという旨の発言を残している[12]。詳しくは後述の関連メディアおよびライブ・イベントの各節を参照のこと。


[編集] 来歴
ここでは来歴の重要な部分のみを記す。作品の発売日、ライブ・イベントの詳細な年月日はそれぞれ作品、ライブ・イベントの節を参照のこと。

1999年の秋[13]、倉木麻衣の全米デビュー時のデモテープ作成にメンバー4人が携わり、スタジオ制作を通して意気投合したのが結成のきっかけとなる。12月4日にミニアルバム『first kaleidscope 〜君の家に着くまでずっと走ってゆく〜』でインディーズデビュー。
2000年3月29日に、『Mysterious Eyes』『君の家に着くまでずっと走ってゆく』の2枚同時発売シングルでメジャーデビューを飾る。この年、計シングル6枚を発売。
2001年には、シングル3枚、オリジナルアルバム1枚を発売。
2002年には、アニメ『名探偵コナン』の主題歌となった『夢みたあとで』がオリコン週間シングルチャート6位を記録。これに伴って初のテレビ出演やライブツアーを行い、ファンクラブ『G-NET』も設立される。メンバー司会の番組『GARNET TIME』も6月より放送開始。この年、計シングル3枚、オリジナルアルバム1枚を発売。
2003年には、東京及び大阪で行われた「GIZA studio バレンタインコンサート」にて、倉木麻衣、愛内里菜と共演。前年より放送されていた『GARNET TIME』が10月をもって放送休止。この年、シングル2枚、オリジナルアルバム1枚を発売。
2004年には2ndライブツアーが行われたほか、それに先行して岡本のソロライブであるTHURSDAY LIVE「OKAMOTO NIGHT」が大阪hills パン工場で開催され、中盤から他のメンバー3人がゲストという形で登場しGARNET CROWの楽曲を披露した。年末には同会場にて「GARNET NIGHT」を開催。この年、シングル3枚、オリジナルアルバム1枚を発売。
2005年にはデビュー5周年を記念して、3rdライブツアー、ファンクラブ限定イベント、メモリアルライブ、初のベストアルバム『Best』の発売を行った。また前年同様に岡本のソロライブへ全員出演。GARNET CROW制作曲として初の提供となる岩田さゆりの「空色の猫」も発売された。この年、シングル2枚を発売。
2006年には、4thライブツアーが行われ、CDのデジパック仕様化やCD連動特典のオリジナルグッズプレゼントなど、グループ自身初の試みも行われた。9月に発売されたシングル『まぼろし』は初のドラマ主題歌に抜擢された。この年、計シングル4枚、オリジナルアルバム1枚を発売。
2007年はデビュー7周年を記念し、メンバー全員が出演したファンクラブイベントや、京都仁和寺におけるスペシャルライブが行われた。この年、計シングル4枚を発売(内2枚は同時発売)。

[編集] メンバー
中村由利(なかむら ゆり)
ボーカル・作曲・バックコーラスを担当。
GARNET CROWの全楽曲の作曲を行うと同時に、メインボーカル及び一部曲のバックコーラスを担当する。デビュー当時はGARNET CROWの中では唯一の新人であった。デビュー以降はGARNET CROWのフロントマンとして、音楽番組におけるインタビューへの対応やライブの進行役も一手に行う。
中村由利 (歌手)を参照

AZUKI七(あずき なな・正式表記はZに斜線が入る)
作詞・キーボードを担当。
AZUKI七の制作した歌詞は、無常観、寂寥感、死といった観念や当て字を数多く使用するなどの傾向がある。歌詞に用いられた単語は、神話や宗教、文学作品に由来しているものがある。ユダヤ教およびキリスト教からは「JESUS」、旧約聖書からは「逃れの町」、仏教からは「輪廻」や「三途の川」がある。文学作品からは「ノヴァーリス」などがある。写真撮影などを趣味としており、その作品はCDジャケットや著書で目にすることができる。
AZUKI七を参照

岡本仁志(おかもと ひとし)
ギターを担当。一部の曲ではコーラスも担当。
GARNET CROWのインディーズデビュー当時の表記は岡本仁。GARNET CROWのデビュー以降、並行してソロ活動を開始した。岡本のソロ活動はGARNET CROWとしての活動にも影響を与え、2004年以降のライブツアーにおいては、本来ギター担当であるはずの岡本が、ボーカルとしてGARNET CROWの楽曲である「千以上の言葉を並べても...」や「Last love song」などを1曲歌うコーナーが設けられた。ライブでは中村から「カリスマギタリスト」と紹介される。2006年現在、自身のラジオ番組を持っている唯一のメンバーである。
岡本仁志を参照

古井弘人(ふるい ひろひと)
リーダー。編曲・キーボードを担当。
楽曲制作における実務的なリーダーである。各メンバーだけでなく他アーティストからも信頼を得ており、演奏・編曲の腕前から「ゴッドハンド」の別名を持つ[14]。ライブにおいては、パフォーマンスとして激しいキーボード演奏を行う。
古井弘人を参照


[編集] 担当楽器
主に楽器を担当するのは岡本仁志、古井弘人、AZUKI七の3人である。岡本はギターを担当し、古井とAZUKI七はキーボードを担当する。場合によってはAZUKI七のフルート、中村由利のタンブリンが演奏されたこともあった。

古井とAZUKI七はキーボードを担当する点で共通するが、使用する機材の数や音色が異なる傾向にある。古井は複数のキーボードを使用するのに対して、AZUKI七は2004年の2ndライブツアー以来、1種類のみのキーボードを使用している。また、古井はシンセサイザーやハモンドオルガンなどの多彩な音色を使い分ける傾向にあるのに対して、AZUKI七はピアノの音色を中心に使用している。1stDVDにおいては、古井の担当は「Keyboards」、AZUKI七の担当は「Pianos」と表記された。

レコーディングやライブでメンバーが使用する楽器類は時期によって若干異なり、その全てが明らかになっているわけではないが、いくつか確認できるものを以下に示す。


[編集] 岡本仁志の使用楽器
岡本仁志#使用楽器を参照のこと。


[編集] 古井弘人の使用楽器
古井弘人が使用したキーボードは、以下のものがある[15]。

シンセサイザー
ヤマハ MOTIF 7 / ES6 / ES7 / ES8 / XS7
ハモンドオルガン
HAMMOND XB-1
HAMMOND New B-3
こうしたシンセサイザーとオルガンの併用が多い。初めて使用楽器を公表したのは2000年発表の「flying」プロモーションビデオにて、その際はコルグのTRITONとZ1を使用した。2004年のライブツアーではMOTIF 7を3台準備し、ストリングス系の音色、パッド・効果音の音色、シンセリードの音色と使い分けている[15]。2005年の3rdライブツアーでは今まで使用していたMOTIFシリーズを一新し、MOTIF ESシリーズの3機種を使用。2007年に行われたGARNET CROW film scope 2007以降はこれに加えて、後継機種であるMOTIF XS7の使用が確認されている。

この他、「夢みたあとで」プロモーションビデオなどではHAMMOND XB-2を使用した。


[編集] AZUKI七の使用楽器
AZUKI七が使用したシンセサイザーは、以下のものがある[15]。

KORG TRITON
ヤマハ S90
ヤマハ MOTIF ES8
ローランド A-90EX
ローランド RD-600
AZUKI七の使用するS90は、2ndライブツアー中盤より白いカバーが掛けられ、AZUKI七専用の仕様となった。また、ローランド製の2機種は、2002年の1stライブツアー映像の数カ所のみで確認できる。この他、「Timeless Sleep」プロモーションビデオなどではコルグのTRITONを使用、「夢みたあとで」「スパイラル」プロモーションビデオなどではヤマハのクラビノーバを使用した。


[編集] 楽曲制作

楽曲制作の基本的な流れ楽曲制作においては、中村由利によるメロディーラインの作曲が先行し、その後古井弘人による編曲、岡本仁志によるギターの収録、AZUKI七による作詞が行われる(右図参照)。そののち再度中村により歌唱収録が行われ、完成となる。詳細は以下の通り。


[編集] 作曲・制作曲選定
中村がメロディーを決定し、デモテープを作成することから楽曲制作は始まる。作曲はピアノを用いて行われる[16]。基本となるメロディーは、ふと思いつく場合もあれば、気に入ったコードから展開する場合もある[17]。完成したメロディーは簡単な英語で歌われ、2番までデモテープに収録する[12]。

作成されたデモテープのなかから、GARNET CROWとして制作に入る曲が選定される。この選定はGARNET CROWの手によるものだけではなく、「君の思い描いた夢 集メル HEAVEN」など、曲をタイアップに起用する企業側によって行われる場合もある。ただし、作品内容とタイアップの関係は必ずしも一定ではなく、「籟・来・也」のように編曲、作詞を経て既に完成していた作品を企業側がタイアップに起用した場合もある[18]。タイアップとの関わりについては後述の楽曲制作とタイアップの節も参照のこと。


[編集] 編曲・ギター収録
古井による編曲は、コンピュータとシンセサイザーを使用した打ち込みを基本とし[19]、専用の部屋で行われている[20]。編曲の具体的内容については古井自身がインタビューで簡潔に説明しており、自分の作業は簡単なメロディーにドラム・ベースなどの音を加え、イントロや間奏の長さを決定し、楽曲としてまとめあげることであると答えている[21]。岡本のギターの旋律は、古井との相談や岡本自身の発案によって決定、収録され、古井の作成した伴奏と合成される[22]。起承転結を重視し、楽曲中の二胡の音と競い合ったり[23]、オルガンとハーモニーを形成したり、ガラスのボトルネックを使用するなどの試みも行われている[24]。

基本的には古井単独による編曲がほとんどではあるが、ボストンの音楽制作会社Cybersoundに所属するミゲル・サ・ペソア(Miguel Sa Pessoa)という人物に依頼されたこともある。ピアノ主体の伴奏を特徴としており、楽曲「水のない晴れた海へ」や「永遠を駆け抜ける一瞬の僕ら」などを編曲した。ミゲル・サ・ペソアは日本語の歌詞を理解しておらず、歌詞の意味から離れて編曲を行っており、楽曲の新視点を提示しているとしてメンバーからの評価が高い[25]。


[編集] 作詞
作詞はAZUKI七に一任されている。中村からデモテープを受けとり、部屋のCDデッキのおける場所で[26]、AZUKI七自身の身体が就寝寸前の状態になったのちに作詞を開始する。この状況で作詞を行う理由は、感覚が開放され創造的な脳の状態にあえて持ち込むためである。AZUKI七はGARNET CROW以外のアーティストに対しても作曲を行っているが、特に中村の曲に詞をつける場合はその傾向が強い[12]。歌詞の内容は、主にAZUKI七の感情を入れずにメロディからのイメージのみを読み取って書き上げられているが、時にはメロディと対話するような形で言葉が出てくるのを待つこともあるという[27]。歌詞のモチーフとしては19世紀後半の作家オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を挙げたことがある[28]。作曲時に中村が曲に対して想定したイメージは、作詞時のAZUKI七には伝えられていないけれども、双方が一致する場合が多い。特にシングル曲「君を飾る花を咲かそう」では、完全にイメージが一致し、お互いに驚愕したというエピソードが残されている[29]。

基本的には上記の通り、AZUKI七ひとりによる個人作業だが、例外もある。楽曲「夏の幻」の制作時には、スタッフに囲まれながら作詞を行った[30]。また、楽曲「夢・花火」の制作の際には、歌詞にお経の文言を入れたが他のメンバーから却下され、修正を促された。修正後、その部分自体もメロディーごと削られた[31]。


[編集] 歌唱収録・調整
作詞・編曲ののち、中村の歌唱が収録され一応の完成となる。中村による歌唱は、詞の内容にはあまり深入りせず、伴奏に合わせて強弱やニュアンスをつける形で行われている[32]。この点については作詞担当のAZUKI七からも、歌詞解釈や意味づけをせずに歌ってほしいと述べている[33]。歌唱収録自体は一度きりで終わった場合から夜通しで行われた場合まである[34]。

その後、ミキシングやマスタリングの作業が行われる。これらの作業については、楽曲「未完成な音色」などのミキシングを手がけたミキサーの中島顕夫が過去にインタビューに答えている[35]。中島によれば、良いミックスであることは当然だが、ミキシングによる音響効果を聞き手に意識させないことに留意して調整が行われている。最終的な1曲あたりの制作期間は、長い場合で1年以上である(「夢みたあとで」「夢・花火」)。


[編集] 収録曲選定・発売
こうして個々の楽曲が完成した後も、それがすぐに発売されるとは限らない。CDに収録する曲の選定や順序は、各曲の完成度や曲同士のバランス等の理由から、発売直前まで検討されている。その一例としては、2回の収録延期がされた楽曲「Float World」がある。「Float World」は、当初2003年9月10日発売のCDシングル『君という光』に収録される予定の曲として公表された[36]。しかし、その直後に収録予定曲から外されている。再度「Float World」が公表されたのは、2ヶ月後の11月12日発売のCDアルバム『Crystallize 〜君という光〜』の収録予定曲としてであり、それについての岡本の解説も音楽雑誌に掲載された[37]。しかし、再度収録予定曲から外され、最終的には2004年1月14日発売のシングル『僕らだけの未来』のカップリング曲として収録、発売された。このように収録予定のCDが次々と変わった理由は、他の収録曲とのバランスを考えた上でのことであった[38]。

シングルやアルバムを発売する際は、プロモーションビデオやジャケット写真の撮影などが行われる。撮影場所はGIZA studioの拠点である関西を中心としており、大阪市内や神戸市内等が撮影場所として公表された。ジャケット写真やCDのデザインは、他のGIZA studio所属アーティストの作品も多く手がける森美保や小島巖らによって制作されており、撮影された写真などはそれぞれの著書としてまとめられた(詳しくは関連書籍の節を)。また、メンバーのAZUKI七による写真もジャケットの一部として用いられることがあり、『first kaleidscope 〜君の家に着くまでずっと走ってゆく〜』や『二人のロケット』のジャケット写真はその一例である[39]。このほか、2006年にシングルCD『今宵エデンの片隅で』のジャケット撮影が行われた際には、ボーカルである中村によって撮影の指示がされている[40]。


[編集] その他
こうした作曲・編曲・作詞・歌唱収録の各工程は、各メンバーそれぞれの個人作業の傾向が強い。この傾向は結成当初から同じであり、楽しみながら制作するバンドというよりも、役割分担を明確にして洗練された楽曲制作集団を各メンバーが目指していたことに起因する[41]。そのため、メンバー同士の意見交換や立ち会いがされるかどうかは流動的である。2001年当時にはメンバー同士の話し合いは当然のこととされていたが[7]、2003年には話し合いなしでレコーディングは進んだ[42]。

また、一旦完成した楽曲が状況によって、再度古井の編曲によってキーやテンポが調整されたり、AZUKI七によって詞に変更が加えられたこともある。その具体例としては、楽曲「僕らだけの未来」のたどった変遷がある。「僕らだけの未来」は、当初は砂丘を意味する「サンドヒル」という名で制作が行われており、スパニッシュなけだるいラテン系の曲であった[43]。その後、シングル化に伴ってテンポの速いロック調の曲に再編曲され、タイトルも「僕らだけの未来」となり、歌詞も変更された[38][44]。


[編集] サポートメンバーおよび関係者
メンバーには専門のベーシストやドラマーがいないため、そうした音色は先述の通り、古井弘人による打ち込みによって構成されるが、いくつかの楽曲収録時にサポートメンバーが参加した場合もある。その多くはメンバーと同じビーインググループ所属のスタジオ・ミュージシャンや、同グループと関わりの深い編曲者である。特に大賀好修や、ミゲル・サ・ペソアをはじめとしたCybersoundメンバーの参加割合が高い。ギターやキーボードといった、GARNET CROWのメンバーとパートが競合する曲もあるが、両者の各楽曲内における具体的な演奏区分は明らかにされていない。参加記録はCDのブックレットのほか、各ミュージシャンの公式ウェブサイトにも残されている(詳しくは節末に一覧表として示す)。またライブの際には、以下のメンバー等が加わることもある。

大賀好修(ギター)
岩井勇一郎(ギター)
大橋雅人(ベース)
David C.Brown(ドラム)
山口‘PON’昌人(ドラム)
福田和希(コーラス) 逆援助交際

日向寺咲(コーラス、GIZAクリエイターズスクール受講生)
中平彩子(コーラス、GIZAクリエイターズスクール受講生)
楽曲及びライブのエグゼクティブプロデューサーはKANONJI ROCKAKUこと長戸大幸である。KANONJIの名前は、写真作品等も含め、ほとんど全てのGIZA studioの作品に記録されているため、具体的な楽曲制作の内部にまで影響を与えているかどうかは不明である。

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オンド・マルトノ (Ondes Martenot) とは、フランス人電気技師モーリス・マルトノによって1928年に発明された、電気楽器および電子楽器の一種である。

鍵盤(英名キー key 、仏名クラヴィエ clavier )またはその下につけられたリボン(英名リボン ribbon 、仏名リュバン ruban )を用いて望む音高を指定しつつ、強弱を表現する特殊なスイッチ(英名タッチ touch 、仏名トゥッシュ touche )を押し込むことによって音を発することができる。多くの鍵盤型電子楽器がオルガンを模して作られ、両手の同時演奏や和音による複数の音を同時に発することができるのに対し、オンド・マルトノはヴァイオリンやチェロのような弦楽器における弓と弦をモデルとして開発され、基本的には単音のみの発音しかできない。

鍵盤とリボンによる2つの奏法、特にリボンを用いた鍵盤に制限されない自由な音高の演奏、トゥッシュと呼ばれる特殊なスイッチによる音の強弱における様々なアーティキュレーション表現、多彩な音色合成の変化、複数の特殊なスピーカーによる音響効果によって、様々な音を表現することが可能である。

発明された時期は古いが、フランスを中心に多くの作曲家がこの楽器を自分の作品に採用した。それらの中には近代音楽以降のクラシック音楽や現代音楽の重要レパートリーとなった曲も多く、現在も頻繁に演奏される。

本来は三極真空管を用いた発振回路で音を得るが、第7世代以降は集積回路を用いたモデルも製造された。

最初オンド・ミュジカル Ondes musicales (音楽電波)と言う名前で発表されたが、後に多くの同様の仕組みの電子楽器が現れたため、発明者の名を取ってオンド・マルトノと呼ばれるようになった。

一般にオンド・マルトノと呼ばれる楽器の形が整ったのは第5世代からで、オンド・マルトノのために書かれたほとんどの作品は第5世代以降の形において初めて演奏可能である。


[編集] 第1世代(1918年)
第1世代はテルミンを真似てほぼ全く同じ原理のものが作られた。これはもちろんモーリス・マルトノのオリジナルではなく単にテルミンの複製に過ぎないので、オンド・マルトノとは見なされない。詳しくはテルミンの項を参照。

第一次世界大戦において通信技師を務め、三極真空管の発する振動原理に対し興味を持っていたマルトノが、テルミンの構造を伝え聞いて作った楽器である。


[編集] 第2世代(1928年)
第1世代がテルミンとほぼ同型で、つまりテルミンと同様に空間上の手の位置で音程を変えていたのに対し、第2世代は紐の張力により音程を調節することになった。これがリボンの原型にあたる。まだ鍵盤はなく、楽器本体はただの箱型である。楽器に対しては距離をとり、一歩ほど引いた位置に立って紐を構えた。これはテルミンの演奏における姿勢を踏襲している。そして楽器本体から離れたところにバネの張力によるスイッチを置き、左手で音量を調節した。これがトゥッシュの原型になる。

この世代をもって初めてオンド・マルトノが発明されたことになる。

この楽器を用いて、1928年秋にパリのオペラ座で披露演奏会が行われた。


[編集] 第3世代(1931年)
第3世代は楽器前面の木枠に鍵盤を模した絵が書かれたが、これはダミーであり、鍵盤としての機能は果たさない。


[編集] 第4世代(1932年)
第4世代は鍵盤が演奏可能に改良されたが、リボンは相変わらず離れた位置から引っ張って操作するので、鍵盤とリボンを同時に切り替えて演奏することはいまだに全く実用的ではなかった。

伊福部昭の著書「管絃楽法」のオンド・マルトノの項目では、楽器構造の説明に dummy keyboard と書かれているが、この記述はこの第4世代楽器によるものと思われる。また同じ本ではリボン奏法に関して

実際の演奏にあつては、このRingの左右移動は右手の担当する処であるが、Martenotにあつては、此の奏法の他に、単にWW1に連る紐を前後に引くもの、叉、鍵盤に手を触れることに依つても発音し得る様に作られたもの等がある。此の様に右手には三種の操作法がある。
と書かれているが(下線部編集者加筆)、この前後に引く紐は第2世代から第4世代まで用いられた。なお下記の第5世代からはこの紐(リボン)を前後に引く奏法は採用されず、現在の操作法はリボンを平行に操る奏法と鍵盤奏法の2種類である。


[編集] 第5世代(1935年)
これ以降が現行の楽器である。現在我々が目にするオンド・マルトノの主たる外見は、この第5世代で決定された。構造に関しては次章を参照。

オンド・マルトノのために書かれたオリジナル曲は、第2世代のお披露目演奏会に用いられた曲など一部を除いて、ほとんど全てがこの世代以降のモデルを対象としている。

また、樹脂製の細長い板を曲げて、電波を思わせる特徴的なデザインの譜面台も、この第5世代から採用されている。


[編集] 第6世代(1950年)
後述のメタリック・スピーカーとパルム・スピーカーが初めて標準で付属した。


[編集] 第7世代(1974年)
発音原理として真空管の代わりに集積回路が採用された。

操作盤がより視覚的に音色を把握できるように改良された。また音色にピンクノイズが追加された。

リボンがリボン製からワイヤー製に変更された(しかし奏法に関しては引き続きリボンと呼ぶ)。


[編集] 第8世代(1980年代)
アトリエ・モーリス・マルトノが開発した最終モデル。

倍音に基づく三和音を同時演奏可能。これはオルガンのストップの構造を模している。

これ以降アトリエ・モーリス・マルトノでは公式な後継機種を発表していない。しかし別の会社が「オンデア」と呼ばれるさらに発展した後継機種を開発している。下記詳述。


[編集] 構造と演奏法

[編集] トゥッシュ、鍵盤、リボン

[編集] トゥッシュ
トゥッシュは後述の操作盤についており、オンド・マルトノの鍵盤よりも分厚く、色は白だがピアノの黒鍵が一本だけついているような形をしている。全体の演奏表現を司るこのトゥッシュはオンド・マルトノの演奏で最も重要な部分であり、弦楽器における弓に相当する。トゥッシュを押し込む際のさわり心地は非常に柔らかく、グランドピアノのように繊細な指の加減が要求される。この感触は内部の和ばさみ型金属バネと、それに挟まれ伝導率を調整するカーボン粉の袋によるものである。

左手は通常トゥッシュに置かれるが、鍵盤を広域に使う奏法(後述のトレモロなど)が必要な場合は両手で鍵盤を演奏する場合もある。このトゥッシュは通常左手人差し指で演奏されるが、ペダルによって足でも演奏可能であり、両手で鍵盤を演奏する場合に使われる。しかし左手で演奏した方がより細かな表情を表現できる。

第7世代モデル以降のペダルは2つが組になっており、5pin DINコネクタで操作盤の左脇に接続する。主に右側のペダルを用いるが、左側のペダルで全体の音量つまり右側のペダルの振幅を調節することも可能である。


[編集] 鍵盤
鍵盤はC1-B6までの6オクターヴ72鍵ある(7オクターヴに1音足りない)。また鍵盤中央部の下にオクターヴ切り替えスイッチがついており、実質B7まで対応している。ピアノはさらにその下のA0まであるので下方に3本、また上方のC7からC8の13本が足りないものの、通常音楽的に使われるオクターヴは全て対応している。教育用楽器として作られた機種では4オクターブのみを持ち、スイッチによってオクターヴを切り替える機種もある。

この鍵盤の一本一本のサイズはピアノよりも狭く、離れた音程間の跳躍やトレモロに適している。鍵盤全体を左右に指で震わせることによってヴィブラートや微分音程への滑らかな移行も可能である。これらは平均律に調律されている。(クラヴィコードのヴィブラートは鍵盤を押し込んで揺らすので、これとは方法が異なる。)

鍵盤中央部の下には、全体の調律のためのダイヤルがついている。通常はA4=440Hzにチューニングされているが、これを変更することも可能である。

鍵盤はネジで楽器本体の枠に固定されており、このネジを緩めることによって鍵盤による微分音程の移行やヴィブラートのかかる範囲が変わってくる。ネジをきつく締めるとほとんどヴィブラートはかからないが、激しい奏法が要求される際に音程が揺らぐのを防ぐことが出来る。

また鍵盤上で素早いトレモロを演奏しながらレゾナンスまたはパルムスピーカー(後述)を用いることにより、擬似的な和音を奏でることも可能である。これはアンドレ・ジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲の第1楽章カデンツァ、トリスタン・ミュライユの「マッハ2.5」(2台のオンド・マルトノのための)などで効果的に用いられている。複数の鍵盤を同時に押した場合は低い音が優先される。このためトレモロでは一番高い音を常に指で押さえ、低い音を素早く押したり離したりする。3音以上の場合は2番目以下の低い複数音を交互に押さえる。弦楽器に於いて低い音を押さえつつ高い音を断続的に押さえるトレモロ奏法に似ているが高低の関係は逆になる。

後述の操作盤上のトリルボタンを用いて、鍵盤の最高音であるB6よりもさらに上の音を出すことも可能である。オクターヴ切り替えスイッチによってB7へ、さらにトリルボタンを併用すると、ボタン一つでは完全五度上のF#8、ボタン3,5,6の組み合わせではC9、さらにあまり現実的ではないが3,4,5,6の組み合わせでC#9まで出すことができる。それに対して下方への拡張はC0の四分音下のみに限られる。


[編集] リボン

リボン奏法(鍵盤の手前、右手の人差し指部分。楽器は第6世代のもの)リボンとはワイヤーのついた指輪の事を指す。(フランス語ではリュバンrubanだが、日本語のオンド・マルトノに関する文献が全て「リボン」表記を採用しているのでここではそれらに倣う)第6世代以前の旧型モデルではワイヤーの代わりにリボンが使われていたので、奏法の名前としては常にリボンと呼ぶ。

リボンの指輪部分は右手の人差し指に嵌め、同じ右手で鍵盤も弾く。リボンは鍵盤の手前に平行についており、その下に音高の位置を示す凹凸がつけられている。鍵盤の白鍵にあたる部分はくぼみ、黒鍵の部分は突起がついており、手元を見なくても指の感覚ですぐに音高を察知できる。また奏者は半音単位で隣接した音へゆっくりグリッサンドで移動して演奏する場合、このくぼみや突起の周りを指で円形になぞる事によってグリッサンドをかける。これはその円周によって指の運動が大きくなり、単に指を平行移動指せてグリッサンドするよりも細かく正確に指のコントロールが利くからである。

鍵盤とリボンの奏法は左手にある切り替えスイッチを楽譜上の指定(クラヴィエ clavier 、リュバン ruban )によって弾き分ける。この際、右手人差し指の位置によって音程が変わってくるので、瞬間的な切り替えには注意が必要である。リボンの音高範囲も鍵盤と同じC1からB6までであり、鍵盤のオクターヴ切り替えスイッチと連動してB7まで拡張可能。ただしC1-B7を一気にグリッサンドで駆け上がることはこの切り替えスイッチの問題で出来ず、C1-B6またはC2-B7に制限される。鍵盤奏法と同様、トリル用ボタンを併用すれば通常C9、非実用的ではあるが最大C#9まで音高を拡張できる

リボンでの奏法の際は常にグリッサンドがかかる。離れた音に移る場合は、トゥッシュを押し込まなければ音が発せられないが、フレーズもそこで切れる。鍵盤で2つ以上の音を順次演奏した際は瞬時に音が立ち上がり固い音の印象になるが、リボンでの奏法は鍵盤よりも音の立ち上がりが遅く、柔らかい印象を持つ。

リボン専用の調律用回転レバーがついており、鍵盤とは別に調律することが可能。ただし本来これは演奏様式の拡張用ではなく、誤差を調整するためのものである。


[編集] 音色
鍵盤の左側には音色を決めるボタンがついており、引き出しのように本体から出して操作する。様々な音色を変化させながら奏でることが可能である。このボタンが集まった場所つまり操作盤を、「引き出し」英名:ドローワー drawer 、仏名:ティロワール tiroir とよぶ(英名:ボタン・テーブル button table 、仏名:タブル・デ・ブトン table des boutons と呼ぶ記述も見られる)。操作盤の全体よりも右側寄りのところに、演奏の要であるトゥッシュがついている。

アンドレ・ジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲では「トランペットのように」「ピッコロのように」と既存の楽器の音色に似せる指示があるが、後年の多くの作品ではこのボタン配分を完全に指定する場合が多い(メシアンについては後述)。


[編集] 真空管モデルと集積回路モデルの差
第6世代までの真空管モデルは柔らかい音が出るよう設計されており、正弦波の出力でも真空管独特の歪みによるある程度の倍音やごく少量のヒスノイズを既に含む。そのため音色は真空管モデルの方が器楽と良く溶け合い、作曲家や演奏家が敢えてこの旧型モデルを好む場合もある。対して第7世代以降の集積回路モデルは全体的に音が硬いが、そのぶん力強く感じるし、音量も大きい。また演奏技術に関しては、機体の反応が良いなどの理由で後年のモデルの方がずっと扱いやすい。

操作盤はそれぞれの楽器が開発された年代によって、その機構がそれぞれ大きく異なる。ここでは代表的な第6世代と第7世代の2つのモデルの差について述べる。しかしこれより新しい第8世代モデルでは全ての音色が段階的に変化できるなど開発が進んでいる。また後述の後継楽器オンデアではさらに変化が加えられている。


[編集] 第7世代における操作盤

第7世代モデルの鍵盤と操作盤部分を接写。D4スイッチは左脇にある
[編集] 音色決定のためのボタン
これらの音色は全て大元の信号として発せられる三角波(トライアングルウェーヴ)を加工する仕組みである。これらのボタンを一つあるいは複数組み合わせることによって、音色が決定される。

O オンド onde 正弦波、サインウェーヴ
C クルー creux 中空の意味。三角波、トライアングルウェーヴ
N ナジヤール nasillard 鼻声の意味。鋸形波、ソーウェーヴ
G ガンベ Gambé 矩形波、スクウェアウェーヴ
g プチ・ガンベ petit gambé 同じく矩形波だが、スイッチの右、トゥッシュの左に付いたレバーで、三角波からの加工の度合いを調節できる。1から5までの目盛りが付いているが、アナログレバーであり緩やかな変化も可能。目盛りを5にすると、ほぼガンベと同じ音色になる。
8 タンブル・オクタヴィアン timbres octaviant オクターブ上の音を出す。左に付いたレバーで効果の度合いを調節できる。プチ・ガンベと同様アナログレバーで5段階の目盛り付き。
T トゥッティ tutti 全ての音色を同時発信。
S スフル souffle 息の意味、つまりノイズ。上記のボタンとは離れており、操作盤の右側についている。操作盤上部右側の回転レバーによって音量を調節する。このノイズはホワイトノイズではなくピンクノイズであり、ノイズのみで出力した場合でも鍵盤やリボンにより若干の音程を聞き取ることが可能である。(ただしピンクノイズは、聴き手ごとの位置や首の傾き方などによる、発信源からのわずかな左右の耳の距離の違いにより、そのドップラー効果によって感じる音程が変わってくる事に注意が必要である。つまり大まかな音程の指定によるリボン奏法は効果があるが、鍵盤奏法でノイズのみの音程を書き記してもその記譜通りの音が全ての聴き手に聞き取れるわけではない。)メタリックおよびパルムスピーカーを併用することにより、単なるピンクノイズにとどまらない打楽器的な音響効果を生み出すことが出来る。特にメタリック・スピーカーでの出力は、ジャズで多用されるように、シンバルをワイヤーブラシ状ドラムスティックで擦るような音になる。もちろん音程を持つその他の音色と組み合わせることも可能。
多くの楽譜の書き方では、まず最初に音色と後述のスピーカーを決定しておく。例えば最初にO C D1,D3とする。次に音色を変えるとき、ボタンをオンにするものは+をつけ、オフにするものは-をつける。これら変化を指定するボタンは、太字や四角で囲むなどして強調しておくのが望ましい。変化のあるボタンのみ書くこともできるが、フレーズの開始部分などでは変化の無いボタンも併記しておくことが、練習の便宜上望ましい。先ほどの組み合わせにNを足し、Cを抜き、スピーカーD3への出力を止める場合は、+N -C -D3 O D1と書く。


[編集] トリル用ボタン
トゥッシュの右横に小さなボタンが並んでおり、それを用いることによって微分音から完全五度までの各音程のトリルまたはトレモロも演奏可能である。この微分音は調律可能で、正確な四分音ではなく若干ずれている場合にはダイヤルで調節することが必要である。長三度と完全五度は純正律上に調律されており、鍵盤でのトレモロよりもずっと効果的に響く。

また複数のボタンを組み合わせることにより、さらに異なる音程を作ることも可能である(下記に詳述)。組み合わせによっては左手のトゥッシュが使えないので、ペダルでの演奏を考慮する必要がある。つまり伸音では使えるが、スタッカートなどトゥッシュの繊細な操作を伴うアーティキュレーションには使えない。また3つ以上のボタンを要求する場合は、とっさの判断に注意を要する。

ボタンを単独で押す場合
ボタン1 下段左 四分音下
ボタン2 下段右 四分音上
ボタン3 中段左 半音(短2度)上
ボタン4 中段右 全音(長2度)上
ボタン5 上段左 長3度上
ボタン6 上段右 完全5度上
ボタンを組み合わせて押す場合
ボタン3,4 短3度上
ボタン3,5 完全4度上
ボタン4,5 増4度上
ボタン1,4,5 増4度上の四分音下(自然倍音列の第11倍音に基づく)
ボタン2,5 長3度と四分音上(平均律上では上記と同様だが実際は微妙に異なる)
ボタン3,6 短6度上
ボタン4,6 長6度上
ボタン2,4,6 長6度と四分音上(誤差によって短7度の六分音下になり、自然倍音列の第7倍音に基づく)
ボタン3,4,6 短7度上
ボタン5,6 長7度上
ボタン3,5,6 完全8度(1オクターヴ)上
ボタン4,5,6 短9度上
ボタン3,4,5,6 長9度(左手で4つのボタンを一度に押すことは困難)

[編集] クリックノイズ
操作盤の枠内ではなく鍵盤の左脇奥に、クリック音を挿入するためのスイッチがある。これを入れると、鍵盤を押すたびに磁石が打ち合わされることにより、発信される信号音の上に磁石の仕掛けでクリックノイズが乗る。例えばN (Nasillard) の音色と組み合わせると、発音した瞬間のノイズと合わさって、チェンバロが伸びたような印象の音になる。

ただし、このノイズは鍵盤を押し込みまたは離した時のみに鳴り、リボン奏法や、鍵盤を用いても鍵盤を押しっぱなしにしてトゥッシュのアーティキュレーションで演奏する際には鳴らない。オンド・マルトノのスタッカート奏法はピアノのように鍵盤上を指で跳ねるのではなく、右手で鍵盤を常に押さえつつ左手のトゥッシュを瞬間的に押して離すことによって得られるので、このスタッカート奏法とクリックノイズを併せることは不向きだが、逆にレガート奏法と、そのレガートのフレーズの終わりにスタッカート奏法を併用すると特に効果的である。


[編集] 第6世代における操作盤
1から7までのスイッチのうち1から5までが操作盤に、残りの6と7は鍵盤中央部の下に配置されている。これらのスイッチを切り替えつつ組み合わせることにより、音色を決定する。単純な矩形波を一つ作るにしても組み合わせを熟知せねばならず、直感的に音色の組み合わせを想像できる後年の操作盤に比べると操作しにくい。

第7世代モデルに比べて制限される機能は以下の通り。

スピーカーの出力が3つまでしかない。
スフル(息、ノイズ)出力機能がない。
タンブル・オクタヴィアンはオンかオフのみで、第7世代モデルのように1から5までの段階的な指定は出来ない。
トゥッシュの右横についているトリル用ボタンは、四分音上または下の2種類しかない。(この四分音は正確にチューニングされているとは限らない。)その代わり第7世代モデルではスフル用のダイヤルがある場所に、大きめの横に長いボタンがついている。これは音程の指定はないが、左・中・右の押す位置により3段階の音程の上昇が可能であり、トレモロも演奏できる。
鍵盤のクリックノイズ出力機能がない。
しかし作曲家が敢えてこの旧型の真空管モデルを使用することを望む場合は、これら一部の機能が制限されることをあらかじめ知っておいた上で、それらの機能を避けるか代替の手段を考慮する必要がある。


[編集] スピーカー

スピーカー。左からメタリック、パルム、プランシパルおよびレゾナンス
メタリックとパルムの裏側4種類のスピーカー(仏名オーパルールhaut parleur)(ただしオンド・マルトノでは英名ディフューザーdiffuser、仏名ディフューズールdiffuseurと呼ぶ)を切り替えることによって、音にいろいろなエフェクトをかけることも可能。これらにはD1からD4までの番号が振られている。Dはディフューザーを意味する。

第7世代モデルでは4つのスピーカーへの出力があるが、第6世代モデルでは3つまでしかない。この場合、レゾナンスが省かれる(つまりレゾナンスは後年になって付け足された)。

D1 (英名プリンシパル principal 、仏名プランシパル principal)
最も主要なスピーカー。特別なエフェクトはかからず、通常のスピーカーと同様の役割を持つ。
D2 (英名レゾナンス resonance 、仏名レゾナンス résonance)
複数の太い金属バネによる残響を伴うスピーカー。D4パルムよりも固くて金属的な残響が特徴。矩形波(C)や鋸形波(N)などの固い音色と良く響き合う。D1プランシパルと同じ筐体の中にこのD2の機能も備わっている。このD1・D2スピーカーの裏蓋を開けると、金属バネの張り具合を調節する大きなネジがついており、電気的ではなく機械的に残響の具合を調節可能である。
D3 (英名メタリック metallic 、仏名メタリック métallique)
銅鑼(ゴングあるいはタムタム)を吊るして電極を通したスピーカーで、その銅鑼の持つ金属的で不規則な倍音を共鳴させるスピーカー。鋸形波(N)やホワイトノイズ(S)と良く響き合う他、正弦波(O)でもグリッサンドを用いることによって銅鑼の倍音が共鳴する。
D4 (英名パルム palm 、仏名パルム palme)
棕櫚の葉を象った弦楽器状のスピーカー。ギターのような胴に表裏12本ずつ合計24本の弦が張ってあり、この弦に電極を通して振動させ、本体で共鳴させることによって、D2レゾナンスとは質感の異なる柔らかな残響を生み出す。D2レゾナンスが矩形波(G)や鋸形波(N)と良く響き合うのに対し、このパルムは正弦波(O)と良く響き合う。弦は通常平均律に調弦されているが、トリスタン・ミュライユの「ガラスの虎」など一部ではこの調弦を変える指定を持つ作品もある。
このD1からD4までの各フォーンプラグ端子接続は入れ替え可能であり、古い曲ではレゾナンスを伴わずに、D2がメタリック、D3がパルムを意味する楽譜もある。楽譜冒頭で各番号がどのスピーカーを意味するのか明記する必要がある。D2とD3は操作盤右側の回転レバーで音量を調節できる。これはトゥッシュとは別に各スピーカー間の音量バランスを調節するのに使う。

スピーカーとの接続は、まず楽器本体から専用のケーブルでD1プランシパルへ繋ぐ。そしてプランシパルの裏側からD2、D3、D4へと分岐される。同時にD1と同じ出力に、もう一つ拡張用のスピーカーを繋ぐことも可能である。この接続のためのケーブルは、D1からの出力に関してはDINコネクタの一種で2ピンのスピーカーDINメス(フランスでは DIN HP femelle )と呼ばれるもので、かつて欧米ではスピーカーの接続用規格として使われていたが現在はほとんど流通していない。(部品を通信販売等で手に入れる事は可能。秋葉原でも売っている。)入力側はフォーンプラグの標準ジャックになっている。つまり、フォーンプラグを使って例えばミキサーテーブルやコンピュータなど他の機器に接続することも可能である。第8世代モデルでは出力側もフォーンプラグが採用されている。


[編集] オンド・マルトノを用いる音楽作品

[編集] メシアン「トゥランガリーラ交響曲」
この楽器が主役として出てくる代表的な曲として、まずオリヴィエ・メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」が第一に挙げられる。オンド・マルトノを用いる曲としては最も演奏頻度の高い曲であり、またピアノと並んでソリストとして扱われるため聴衆に与える楽器の印象は強い。

この曲では、完全なボタン配分での音色指定に加え、その音色が持つ特徴を楽器名などに例えて書き添えている。第2楽章や第4楽章では特に、同じフレーズを繰り返す箇所でも微妙に音色指定を変えている。また特に第3楽章において、グリッサンド表現に弦楽器を含む、あるいはそれと交替させるオーケストレーションも効果的に用いられている。

第5楽章および第10楽章の終盤には、オンド・マルトノのパートにピアニッシモから始まってフォルテッシモに至る長い伸音でのクレッシェンドがあるが、この音の立ち上がりを柔らかくし、なおかつヴィブラートは鍵盤よりもリボンの方が効果的にかかるため、特にグリッサンドやポルタメントを伴わないにもかかわらずリボン奏法の指定がある。

前述のトレモロ奏法は、第8楽章(「愛の展開」という副題が付いており、楽章全体が全曲の展開部と位置づけられている)において、「花の主題」が再現される際にクラリネットの音色補佐として用いられているが、第1楽章の提示部および第4楽章での同再現部にはクラリネットしか出てこないため、ここでのオンド・マルトノを伴う音色的展開は効果的である。

これらオーケストラの楽器の音色と混ぜる従来の管弦楽法的な使い方のほか、低音部でのグリッサンドなど、効果音として打楽器のようにオーケストラを補助する音色としても用いられる。

メシアンの曲としては他にも、初期の組曲「美しき水の祭典」(6台のオンド・マルトノのための)(後にいくつかの楽章が「世の終わりのための四重奏曲」に転用された。詳しくはメシアンの項を参照)、「神の現存の三つの小典礼」、歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」などでもオンド・マルトノを用いている。


[編集] ジョリヴェ「オンド・マルトノ協奏曲」
アンドレ・ジョリヴェの「オンド・マルトノ協奏曲」は、メシアンのトゥランガリーラ交響曲と並んでこの楽器の初逆援助
期である1940年代にオンド・マルトノの可能性を探求した曲として重要である。しかしトゥランガリーラ交響曲に比べると上演回数にはほとんど恵まれていない。

この曲ではオンド・マルトノは精霊を表すものと作曲者によって定義されており、実質の存在であるその他の楽器によるオーケストラと対極をなす存在である。つまり、この曲においてオンド・マルトノは、従来のあらゆる楽器を超える存在であることを念頭に書かれている。その考えは詩的なアイデアだけにとどまらず、楽譜のあらゆる場所で読み取れる。

例えば冒頭のオンド・マルトノのソロは、低音域のF2から始まってC7に至るまでの長くゆっくりのメロディを、一息でしかも全オクターヴにおいて均等な音質で演奏している。このような楽器はそれまで弦楽器も管楽器も存在せず、ピアノも減衰音である以上アーティキュレーションは異なる。オルガンが唯一の例外だが、オンド・マルトノはそれよりずっと繊細なアーティキュレーションやヴィブラートを伴って演奏できる。第1楽章のカデンツァでは、単音しか発し得ないオンド・マルトノに、トレモロによる擬似和音の効果を求めている。しかもその和音は複数の声部に分けてポリフォニックに書かれており、バッハ以来一つの楽器でポリフォニーを求める伝統の、音楽的な表現の豊かさも忘れていない。(この冒頭とカデンツァの二つの譜例は、伊福部昭の著書「管絃楽法」にも記載されている。)第1楽章終盤には、オンド・マルトノがリボン奏法でオクターヴを昇るのに合わせてハープのグリッサンドも重ねられており、管弦楽法としてとても効果的に響く。

第2楽章では変拍子スケルツォに乗せて、楽器の様々な可能性が試みられる。音色の極端な変化、鍵盤奏法とリボン奏法の瞬間的な交替、超高速グリッサンド、スタッカートなどアーティキュレーションの変化と、それらの各音色にあわせてシロフォンやピッコロ、あるいはサクソフォンとの交替によるオーケストレーションの可能性が試されている。クライマックスでは6オクターヴもの異国的な音階を鍵盤上で駆け上がるが、これはジョリヴェの前作である「リノスの歌」のフルートによる5オクターヴの上昇を踏襲している。第3楽章ではリボン奏法とパルム・スピーカーの効果を中心とした、緩徐楽章でのカンタービレであり、第1・第2楽章のヴィルトゥオージティに対して、オンド・マルトノの音色そのものを聴き込む曲となっている。


[編集] その他の作曲家
アルテュール・オネゲルの音楽劇「火刑台上のジャンヌ・ダルク」でもオンド・マルトノが効果的に使われている。

マルセル・ランドフスキも「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲しており、オンド・マルトノ奏者にとって欠かせないレパートリーである。

トリスタン・ミュライユの「空間の流れ」(オンド・マルトノとオーケストラのための)では、オンド・マルトノをシンセサイザーに接続し、オンド・マルトノが本来持ち得ない合成音色を要求している。これによって微分音を含む和音の同時演奏が可能になり、ミュライユの音楽書法であるスペクトル楽派が重視する合成された高次倍音の響きが得られる。

西村朗の「アストラル協奏曲・光の鏡」(オンド・マルトノとオーケストラのための)は、打楽器奏者が水を張ったワイングラスの淵をぬれた指でこすって演奏し、オンド・マルトノとよく似た音を出す事によってこの二つの音色を混ぜ合わせている。このワイングラスの演奏原理はグラスハーモニカと同様だが、グラスハーモニカの楽器そのものは求められていない。これはグラスハーモニカを長期演奏すると神経障害が発生するという俗説が広く知られプロのグラスハーモニカ奏者が世界的にほとんど存在しないのと、この曲で求められるワイングラスの響きが数音に限られていることによる。

その他、下記のジャンヌ・ロリオによるオンド・マルトノの奏法解説書には、第2巻末に約300曲、第3巻は全巻にわたってその倍以上、ソロ曲あるいは室内楽から管弦楽やオペラに至るまで、オンド・マルトノを用いる様々なレパートリーが紹介されている。


[編集] 映画、テレビなどの音楽
映画音楽での使用例としては、次の作品が挙げられる。

「とらんぷ譚」(1938年サシャ・ギトリ監督、アドルフ・ボルシャール)(マルトノ本人が演奏)
「巴里の空の下セーヌは流れる」(1951年、ジャン・ヴィエネル)
「アラビアのロレンス」(1962年、モーリス・ジャール)
「狼は天使の匂い」 (1972年、フランシス・レイ)
「インドへの道」(1984年、モーリス・ジャール)
「ゴーストバスターズ」(1984年、エルマー・バーンスタイン)
池辺晋一郎が作曲したNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」と「八代将軍吉宗」のテーマ音楽でオンド・マルトノが使われた。

武満徹は演奏会用作品ではオンド・マルトノを用いていないが、NHK特集「未来への遺産」の番組テーマ曲においてこの楽器を使用した。

最近では、アニメ「パルムの樹」(原田節作曲、ハラダタカシ名義)および「びんちょうタン」(岩崎琢作曲)のサウンドトラックでもこの楽器が用いられ、原田節が演奏を担当している。

プレイステーション2用ゲームソフト「アークザラッド 精霊の黄昏」のエンディング曲にもこの楽器が使われている。


[編集] 演奏家
オンド・マルトノの奏者のことをオンディスト ondisteと呼ぶ。

代表的な演奏家としては、マルトノの妹であるジネット・マルトノ、ピアニストのイヴォンヌ・ロリオの妹であるジャンヌ・ロリオ、作曲家としても有名なトリスタン・ミュライユなど、 日本では本荘玲子、原田節、大井浩明、市橋若菜、久保智美などが知られている。

パリ音楽院では1947年よりオンド・マルトノ科が開設され、現在も若い演奏家たちを育てて逆援助
いる。


[編集] 日本との関係
オンド・マルトノ発明者のモーリス・マルトノは1931年2月に来日し(下記参考文献 Jean Laurendeau "Maurice Martenot, luther de l'électronique" による)、この楽器を初めて日本に紹介した。神戸で楽器運搬の際、駅長に念を押して壊れ物扱いでの運搬を頼んだところ、運搬先で開梱したら調弦が全く狂わず正確に届いたことに感心したと、マルトノは日記に書き記している。また宮中にも招かれ、皇族や貴族の御前で演奏したほか、皇女の一人が強く興味を示してオンド・マルトノを試演したとも書かれている。

このとき日本へ持っていった楽器は、第3世代かもしくは開発途中で公表されていなかった第4世代のいずれかと思われる。日本国内の文献によると、当時の日本の新聞では「音波ピアノ」と紹介されており、何らかの形で鍵盤に似た構造が備え付けられていたと想像できる。

戦後では、小澤征爾が1962年7月4日にメシアンのトゥランガリーラ交響曲を日本初演した演奏会が、日本の聴衆にこの楽器の大きな印象を与えた最初の機会の一つである。詳しくは小澤征爾の項を参照。

同じくこの楽器にとって重要レパートリーであるはずのジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲は、それよりずっと遅れて1997年に原田節独奏、大野和士指揮東京フィルハーモニー交響楽団によって日本初演された。

現在日本にはオンド・マルトノ友の会というオンド・マルトノに関する組織がある。逆援助
日本人の演奏家も多い。


[編集] 後継楽器
現在オンド・マルトノは生産技術が途絶えており、モーリス・マルトノ時代と同じ複製品を作成することはきわめて困難となっている。代わっていくつかの新機能を備えた楽器オンデアと、鍵盤部分を模したアナロ逆援助
グ・コントローラーが作られている。


[編集] オンデア
オンデアは、オンド・マルトノを製作したアトリエ・モーリス・マルトノ(現アトリエ・ジャン=ルイ・マルトノ)とは別の会社が製作している。本家オンド・マルトノと異なる点は以下の通りである。

リボンと呼ばずバーグ Bague (指輪)と呼ぶ。略号もBと記されている。
トゥッシュ、鍵盤、リボン(バーグ)のガイド溝が木製・木目調。(黒鍵は黒く塗られている)
鍵盤とリボン(バーグ)のガイド溝の間が広い。
指輪が樹脂製で、弾力を利用して挟む形になっている。ただしこの指輪は将来発展の余地があるとされる。
鍵盤を振動させることによるヴィブラートの幅を、機械的および電子的に調節できる。機械的な変化は鍵盤の振動幅の感覚が実際に減り、電子的な変化は鍵盤の振動の感覚は同じだが効果が大きくかかる。振幅は最大で1オクターブまで拡張できる。
基本的な音色がオンド・マルトノとは大きく異なる。DSPに特徴的な固い音色を基本とする。ただしフィルターによってある程度音色の固さを柔らげる事は可能で、これによってオンド・マルトノに近い音が出る。このフィルターはローパス(オンド・マルトノ風になる)、ニュートラル(フィルター無し)、ハイパスに分かれており、レバーで段階的に調節可能。
逆援助
D1スピーカーの外見は大きく異なる。反響盤が斜めについており、これによりコンサート会場では広い幅に渡って音が飛ぶことを意図して設計されている。
トリル用ボタンが拡張されており、段階的にオクターブ超の振幅を伴う跳躍が可能。これはオンド・マルトノ第6世代以前のトリルボタンを模しているものの、その機能は独自である。
オクターブ切り替えボタンが鍵盤の下だけでなく操作盤にもついている。これを組み合わせることによって2オクターブ上げることも可能。トリル用ボタンと組み合わせれば3オクターブまで上昇する。ただし実際に出る最高音はB9までで、C10ないしC#10を出そうとすると無音になる。
クリック音出力機能のスイッチが鍵盤の左脇ではなく操作盤についている。
各スピーカー出力別の音量レバーがついている。
操作盤の蓋のねじを開けることにより、以下の調節が可能。
各音色のスイッチ別にネジによるチップ単位での音色調節
トゥッシュの押し込み具合の柔らかさ
背面に同軸ケーブル出力を備える。これに外部機器を組み合わせることによりMIDI出力が可能。
ヘッドフォンおよび外部スピーカー直接出力を備える。DIN-4Pプラグが必要だがヘッドフォン用にジャック・メスの変換ケーブルがオプションで付く。
オンド・マルトノは商標登録されているため、新しい呼び名としてオンデアが用いられている。

逆援助
[編集] アナログ・コントローラー・フレンチ・コネクション
イギリス アナログシステム社が開発した、オンド・マルトノを模して作られたアナログ・コントローラー。アナログシンセサイザーに接続して使う。これは音程と音量の数値をアナログ電圧で出力できるという利点があるが、鍵盤がオンド・マルトノの教育用機種と同様の4オクターブしかなく、またその鍵盤によるヴィブラートができず、トゥッシュの押し込み具合やリボンの感覚もオンド・マルトノ実機とは異なるなど、代替機として使用する際の問題も抱えている。しかし、現在入手できる楽器でオンド・マルトノ的な表現をする際には、現在のシンセサイザーが採用するMIDIでは広範囲にわたる音程のスムースな

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出会保証センタ−という悪徳サイト




携帯のみ。PCではアクセス不可。
当方の場合、他のサイトでメルアド交換した相手がここのサクラだった模様。いきなりメアドにメ−ル交換希望のメ−ルが来た。
で、お試しptのうちに最初の退会要求メ−ルを送るが応答無し。そしてうっかりして−ptにした直後に退会メ−ル出したら早速の反応。しかも後払いに知らぬ間にされていた。
相手している暇が無かったので残念ながら清算後に退会メ−ル出したらあっさり受理されたものの相変わらずサクラからのメ−ルがうるさい。こちらは知らぬ間に登録されてプロフの全てを「ひみつ」にしてあるが、それでも「会いたい」「送受信無料にする」ってサクラ丸出しです。しかもポイント購入は銀行振り込みのみなので、便利悪です。


[編集] 国名
西欧人がオスマン帝国を Ottoman Turks, Turkish Empire と呼んだことから、かつては「オスマントルコ」、「トルコ帝国」、「オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在はオスマン帝国あるいは単にオスマン朝と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、君主(パーディシャー、スルタン)の出自はトルコ系で宮廷の言語もオスマン語と呼ばれるペルシア語やアラビア語の語彙を多く取り込んだトルコ語ではあったが、支配階層には民族・宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。

なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる Osmanlı İmparatorluğu や「オスマン国家」にあたる Osmanlı Devleti の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。


[編集] 歴史
オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、スルタン制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。

もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。


[編集] 建国と拡大の時代
13世紀末にビザンツ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯であったアナトリア西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長、オスマン1世が率いる軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、遊牧民の集団であったとする説も根強いが、一般にはオスマンを指導者として結集したムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)たちであったとする説が有力である。彼らオスマン集団は、周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国 (Osmanlı Beyliği) を築き上げた。


初期オスマン帝国の騎兵(スィパーヒー)1326年頃オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃にビザンツ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大した。ブルサはオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。

1346年、オルハンはビザンツの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスとの同盟をきっかけにダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島のトラキアに進出、ヨーロッパ側での領土拡大を開始した。オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第二の首都とするとともに、常備歩兵軍イェニチェリを創設するなど国制を整え、1389年にコソヴォの戦いでセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を破った。

ムラトの子バヤズィト1世は、1396年にブルガリア北部におけるニコポリスの戦いでハンガリー王を中心とした十字軍を撃破、領土を大きく広げた。しかし、1402年のアンカラの戦いでティムールに敗れて憤死し、バヤズィトの諸子の間で後継争いが起こって帝国の拡大は一時停滞した。

バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1453年、ムラトの子メフメト2世はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついにビザンツ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシア語に由来するイスタンブルという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。


オスマン帝国の勢力拡大こうして15世紀末までにバルカンとアナトリアのほぼ全土を平定し、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至ったオスマン帝国を1512年に継承した第9代セリム1世は、エジプトのマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。


[編集] オスマン帝国の最盛期

スレイマン1世(在位1520年-1566年)第10代スレイマン1世のとき、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。

スレイマン1世は即位するとまずベオグラードを征服してハンガリー領に進出し、ロードス島でムスリムに対する海賊行為を行っていた聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国を破り、その大半を占領する。さらに東ではサファヴィー朝からイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。

またこれに前後してハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世と同盟し、1529年にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の都ウィーンを1ヶ月以上にわたって包囲した。第一次ウィーン包囲と呼ばれるこの作戦は失敗に終わったものの、オスマン軍がヨーロッパの奥深くを脅かしたことは西欧諸国に強い衝撃を与えた。さらに、1538年プレヴェザの海戦では、スペインなどの連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置くことに成功した。そしてスレイマンはインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラー・ウッディーンの要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行ったという。 スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。

また、軍事構造の転換によって火砲で武装した歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が高まり、その人員が爆発的に増大して維持費が軍事費を圧迫し、かわって在地の騎士であるスィパーヒー層が没落していった。それに応じてスィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制)が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。

なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。


[編集] 帝国支配の混乱と衰退

レパントの海戦スレイマンの死から5年後の1571年、レパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に敗北し、地中海の覇権を失った。もっとも、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌年にはチュニスを獲得したほどである。

しかし、繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1579年、スレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャが暗殺されて以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰や、連年の戦役による軍事費の増大が財政を苦しめ、さらにアナトリアで民衆反乱が群発するに至り、帝国内は急速に動揺し始める。 そのような情勢の下で1645年に起こったヴェネツィア共和国との戦争は1656年、ヴェネツィア艦隊の海上封鎖を招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャは全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大し、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。

しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿カラ・ムスタファ・パシャは功名心から1683年に第二次ウィーン包囲を強行する。一時包囲を成功させるも、欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入る。戦後、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われた。1700年にはロシアとスウェーデンの間で起こった大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア帝国との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続くオーストリアとの戦争のために、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失う。


アフメト3世の時代(1720年頃)の祝祭の様子。王子の割礼を祝う様子を描く。このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、これを期に西欧技術・文化の吸収を図り、後期のトルコ・イスラム文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相イブラヒム・パシャ(在任1718年-1730年)の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。しかし、1730年、サファヴィー朝の混乱に乗じて行われたイラン戦役が、ナーディル・シャーの登場でオスマン側に劣勢に動き始めると、浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリルの乱を起こして君主と大宰相を交代させるに至り、チューリップ時代は終焉した。

やがて1739年のベオグラード条約でベオグラードを奪還し、1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーンと呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいたが、しかし産業革命が波及して急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時にヨーロッパ諸国に与えたカピチュレーションを利用して、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めたのであった。


[編集] 近代化をめざす「瀕死の病人」
18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1774年、キュチュク・カイナルジャ条約によって帝国は黒海の北岸を喪失し、1792年にも再び敗れてロシアのクリミア半島の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。

この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけにエジプトの実権を掌握したムハンマド・アリーは、1830年反乱を起こしてエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。


ギリシャ独立戦争の敗北(ナヴァリノの海戦)一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立戦争(1821年 - 1829年)によってギリシャ王国が独立を果たした。これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。

オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、ヨーロッパから「瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。

しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに1839年、アブデュルメジト1世は、改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。

1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、1856年に改革勅令を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。

しかし、改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために農業のモノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。

こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとで「アジア最初の成文憲法」と言われるオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。

だが憲法発布から間もない1878年に、オスマン帝国はロシアとの戦争に完敗し、帝都イスタンブル西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまるが、この時代は専制の一方で財政破産以降に帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の民主主義、民族主義の拡大を準備した。


[編集] 世界大戦から滅亡への道
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。


エンヴェル・パシャ1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909年には保守派の反革命運動を鎮圧、1913年には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。

この間にも、サロニカを含むマケドニアとアルバニア、リビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツに近づき、1914年に始まる第一次世界大戦では同盟国側で参戦した。

この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、ガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。帝国は1918年に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領された。

敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ)を指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、アンカラにトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成した。

一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約をメフメト6世に押し付けた。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容だったため、ギリシャ軍のアナトリア進攻に正当性を与えたが、かえってトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約の履行を諦め、新しい講和条約の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。1922年、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機にスルタンとカリフの職権分離と、スルタン制の廃止を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命)。

翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に生まれ変わった。トルコ共和国は1924年、スルタン制の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン王権は完全に消滅した。


[編集] 制度

四重冠を着用するスレイマン1世の像。この四重冠はスレイマンがイタリアの金細工職人につくらせたもので、ローマ教皇の三重冠を意識したものだと言われている。オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。

20世紀前半には、ヨーロッパにおけるビザンツ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制とビザンツ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいてビザンツ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主がルーム(ローマ帝国)のカイセル(皇帝)と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国はビザンツ帝国すなわち東ローマ帝国の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。

このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。

オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、君主を頂点に君主専制・中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。

軍制は、地方に居住し徴税権を委ねられたティマール制による騎兵スィパーヒーと、中央のカプクル(「門の奴隷」の意)常備軍団からなり、カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリは、火器を扱うことから軍事革命の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。

帝国の領土は直轄州、独立採算州、属国からなる。属国(クリミア、ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニア、ヒジャーズなど)は君主の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州(エジプトなど)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。直轄州は州(大軍管区)、県(小軍管区)、郡(法官管区)に分かれ、郡ごとにカーディーが任命されて行政を担当し、県と州にはそれぞれサンジャクベイ(県知事)、ベイレルベイ(州知事)と呼ばれる軍人が任命されて管区内の兵を統括した。

中央では、君主を頂点とし、大宰相(サドラザム)以下の宰相(ヴェズィール)がこれを補佐し、彼らと軍人法官(カザスケル)、財務長官(デフテルダル)、国璽尚書(ニシャンジュ)から構成される御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)が最高政策決定機関として機能した。17世紀に君主が政治の表舞台から退くと、大宰相が君主の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長(レイスルキュッターブ)、大宰相府の幹部である大宰相用人(サダーレト・ケトヒュダース)などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。


大宰相府(バーブ・アーリー)の門中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー)と、書記官僚(キャーティプ)の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティーの公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル)であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム)である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。

これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に西欧を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の内閣を率いる首相となった。

しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、イスラム国家としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。
オスマン朝では、神学や哲学のような形而上の学問ではアラブ・イランのものを上回るものはあらわれなかったと言われるが、それ以外の分野では数多くの優れた作品を残した。


イズニク陶器の水差し(16世紀頃)建築は、イスラムの伝統様式に加えてギリシャ建築の影響を受け、オスマン建築と呼ばれる独特の様式を生み出した。モスクなどに現存する優れた作品が多く、17世紀に立てられたスルタンアフメット・モスク(ブルーモスク)がもっとも有名である。建築家はイスタンブルのスレイマニエ・モスクやエディルネのセリミエ・モスクを建てた16世紀前半のミマール・スィナンが代表的であるが、アルメニア人の建築家も数多く活躍した。宮殿では、伝統的建築のトプカプ宮殿や、バロック様式とオスマン様式を折衷させたドルマバフチェ宮殿が名高い。

陶芸は、16〜17世紀のイズニクで、鮮やかな彩色陶器が生産された。この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。18世紀以降は陶器生産の中心はキュタヒヤに移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。

文学は、トルコ語にアラビア語・ペルシア語の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させたオスマン語が生まれ、ディーワーン詩や散文の分野でペルシア文学の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく(トルコ文学の記事も参照)。


楽人(レヴニー画)美術の分野では、イスラム世界から受け継いだアラビア文字の書道が発展し、絵画はイラン経由で中国絵画の技法を取り入れたミニアチュール(細密画)が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて遠近法や陰影の技法が取り入れられ、特にチューリップ時代の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。

音楽はアラブ音楽の影響を受けたリュート系統の弦楽器や笛を用いた繊細な宮廷音楽(オスマン古典音楽)と、チャルメラ・ラッパや太鼓・ドラムの類によって構成された勇壮な軍楽(メフテル)とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている(トルコ音楽の記事も参照)。

園芸では、チューリップ、ヒアシンス、アネモネ、ラナンキュラスなどが庭園で栽培され園芸植物化され、多くの品種を生じた。これらは16世紀にヨーロッパに伝えられ、フローリスツ・フラワーとして発展し、現在も重要な園芸植物として扱われている。


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