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父親の死後に作曲された『レクイエム』は彼の代表作の1つである。他の管弦楽や声楽を含んだ大規模作品として、歌劇『ペネロープ』、『プロメテ』、組曲『マスクとベルガマスク』、同『ペレアスとメリザンド』などがある。
しかし、むしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多い。それぞれ2曲ずつのピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタと、各1曲のピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲がある。
また『バラード 作品19』、『主題と変奏 作品73』、『舟歌』、『夜想曲』、『即興曲』、『ヴァルス・カプリス』、『前奏曲 作品109』など生涯にわたって多くのピアノ曲を作った。
歌曲でも『夢のあとに』(Après un rêve)、『イスファハーンの薔薇』(Les roses d'Ispahan)、『祈り』(En prière)、ヴェルレーヌの詩に曲をつけた『月の光』(Clair de lune)、20篇のうち9篇を選んで作曲した『優しい歌』(La Bonne Chanson)などかなりの数の歌曲を残している。
晩年には、難聴に加えて高い音がより低く、低い音がより高く聞こえるという症状に悩まされながら作曲をつづけた。ピアノ五重奏曲第1番以降の作品は、そうした時期のもので、次第により簡潔で厳しい作風へと向かっていった。
肺炎のためパリで死去。マドレーヌ教会で『レクイエム』の演奏されるなか国葬が行われ、パリのパッシー墓地に葬られた。
[編集] フォーレの音楽の特徴
[編集] 音楽史的な位置
フォーレは、リスト、ベルリオーズ、ブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、無調の作品が数多く書かれ、微分音、十二音技法などが試みられていたころに晩年を迎えている。なかでも、調性崩壊の引き金を引いたワーグナーの影響力は絶大で、同時代の作曲家は多かれ少なかれ、ワーグナーにどう対処するかを迫られた。
こうした流れのなかで、フォーレの音楽は、折衷的な様相を見せる。ワーグナーに対しては、ドビュッシーのようにその影響を拒否するのでなく、歌劇『ペネロープ』でライトモティーフを採用するなど一定の影響を受けつつも、その亜流とはならなかった。形式面では、サン=サーンスの古典主義に引きこもることはしなかったが、その作品形態は当時の流行を追わず、古典主義的な楽曲形式を採用した。調性においては、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。
このように、フォーレは音楽史上に残るような新たな様式を打ち立てたり、「革新」をもたらしたりしてはいない。また、フォーレの音楽は、劇的表現をめざすものではなかったので、大規模管弦楽を擁する大作は必然的に少ない。ただし、和声の領域では、フォーレはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしている。とくに、調性と旋法性の融合という点において、フォーレの和声には独自性が見られ、まさに時を越えた作曲家なのである。
[編集] フォーレの音楽の変遷
フォーレの音楽は、便宜的に初期・中期・晩年の三期に分けられることが多い。初期の代表作として、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品13)やピアノ四重奏曲第1番(作品15)があるが、この時期の作品は親しみやすく、とくにヴァイオリン・ソナタ第1番は、フォーレの全作品中おそらくもっとも演奏機会の多い曲である。夜想曲では第1番から第5番、舟歌では第1番から第4番が相当する。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっている。旋律を歌わせる際にはユニゾン、伴奏形には装飾的かつ流動的なアルペジオが多用される。ユニゾンとアルペジオは、フォーレの生涯にわたって特徴的に見られるが、この時期のそれは、もっぱら音色の効果や装飾性の域を脱するものではない。チェロとピアノのための『エレジー』(作品24)では、中期を予想させる精神性がかいま見られる。
フォーレの中期あるいは第二期は、ピアノ四重奏曲第2番(作品45)、『レクイエム』(作品48)、『パヴァーヌ』(作品50)などが作曲された1880年代の後半から、ピアノ五重奏曲第1番(作品89)が完成した1900年代前半までと見られ、他に『主題と変奏』(作品73)、『ペレアスとメリザンド』(作品80)などがある。夜想曲では第6番から第8番、舟歌では第5番から第7番が相当する。初期の曲に見られる、輝かしく外面的な要素は、年を経るに従って次第に影を潜め、より息の長い、求心的で簡素化された語法へと変化していく。初期の音楽と比べて、これをフォーレの「後退」とみる評者もある。また、ひとつひとつの音を保ちながら、和声をより流動的に扱うことにより、拍節感は崩れ、内声部は半音階的であいまいな調性で進行するようになる。こうした微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。
歌劇『ペネロープ』やヴァイオリン・ソナタ第2番(作品108)が作曲された1900年代後半からは、晩年と見られる。夜想曲では第9番以降、舟歌では第8番以降。耳の障害が始まり、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていく。しかし、この時期の一連の室内楽作品は、壮大な規模と深い精神性を湛えた傑作群である。ピアノ五重奏曲第2番(作品115)やピアノ三重奏曲(作品120)では、冒頭にピアノによるアルペジオが見られるが、もはや華やかさとは無縁の、単純化された音型であり、弦のユニゾンもまた、抽象的な高みへの追求あるいは収斂性として働いている。最晩年に作曲された弦楽四重奏曲(作品121)は、唯一ピアノを含まない室内楽作品であるが、輪郭のはっきりとしたピアノの打音が退けられた結果、音楽はより幽玄な情緒を帯びており、ときに晦渋な作風を印象づける。
[編集] アール・ヌーヴォーとの関連
フォーレ研究家として知られるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書『ガブリエル・フォーレ』のなかで、同時代の文学者マルセル・プルーストがフォーレの音楽に魅了されていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォーに属する芸術家として位置づけた上で、「そのまがりくねり互いに絡み合った長いフレーズと常時現れる花にまつわる主題は、まさに1900年の芸術を象徴するものである。」と述べている。
一般に、アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭の装飾美術・デザインに適応される様式概念であり、ネクトゥーの説はこれを文学、音楽に敷衍させたものといえる。この指摘は、アール・ヌーヴォーのもつ装飾性や、コントラストでなく曲線重視といった表現性を、フォーレの音楽性と通じるものとしてみている。この観点からは、フォーレの別の側面が見えてくることも事実である。装飾的な音型がメロディーに同化している点で、初期の歌曲『夢のあとに』がまず挙げられる。さらに、「舟歌」をはじめとして、アルペジオへのフォーレの傾斜は、晩年まで見られる特徴である。ただし、「装飾音」であっても、その効果あるいは意図するところは、すでに述べたように、初期と晩年では相当に違っている。
[編集] フォーレは「サロン音楽」の作曲家か
フォーレは、当時のサロンで受け入れられたため、ドビュッシーを初めとして、フォーレの作品を「サロン音楽」と矮小化して受けとめる風潮も現在まで存在する。もちろん、フォーレの音楽に、サロンで受け入れられるべき要素が含まれていることは否定できない。とはいえ、フォーレの音楽は、とくに中期から晩年にかけてのそれは、規模の小さな作品においても、ただ柔らかく上品で、洗練されているというだけで終わってはいない。ごく自然に流れる音の流れが、実は伝統的なあらゆる手法を駆使した、独自の緻密な構成によっている。
1906年に、フォーレは妻にあてた手紙でピアノ四重奏曲第2番のアダージョ楽章について触れ、「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」と書いている。また、1908年には次男フィリップに「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と書き残している。このように、フォーレの音楽には、現実を超えた高みへの憧れが盛り込まれ、これに耳を傾ける者の感動を誘うのである。
フォーレは死の2日前、二人の息子に次のような言葉を残している。「私がこの世を去ったら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ……」
[編集] 教育者としてのフォーレ
フォーレは1896年にマスネの後任としてパリ音楽院の作曲科教授となっており、その門弟にはモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス、ジョルジェ・エネスクらがいる。
ラヴェルがローマ大賞を落選した、いわゆる「ラヴェル事件」により1905年にはテオドール・デュボワの後任として音楽院院長となり(1920年まで)、音楽院改革を行った結果《ロベスピエール》とあだ名されるようになったが、このときの改革のうち入学前の生徒の教授との癒着を避けるため、音楽院の外部者に入学審査を行わせたことは、現在でも入学審査に必ず音楽院の外部者が加わっているというかたちで受け継がれている。このように彼は優れた音楽教育者としても知られている。
[編集] フォーレの女性関係
『レクイエム』で知られ、教会オルガニストであったことから敬虔なカトリック教徒というイメージが強いが、フォーレ自身、必ずしもそうでないことを認めている[1]。
実際、若いころのフォーレは享楽的な傾向を持ち、1883年に彫刻家エマニュエル・フルミエの娘、マリーと結婚した後も、90年代前半はのちにドビュッシー夫人となったエンマ・バルダックと、後半はイギリスの楽譜出版社の夫人のアディーラ・マディソンと関係を持ち、そして1900年『プロメテ』初演時にアルフォンス・アッセルマン(ハーピスト・作曲家)の娘、マルグリット・アッセルマンと出逢い、そののち彼女を生涯旅行などに付き添わせるといった愛人たちとの交際を続けた。
[編集] 主要作品
以下「Op.」以下の数字は作品番号を示す。
[編集] 管弦楽曲
カリギュラ Op.52 (Caligula,1888年)
舞台音楽の最初の作品。大デュマの同名の悲劇再演のために小デュマから依頼を受け、わずか数ヶ月で書き上げた。劇付随音楽としての初演は1888年11月8日。その後、演奏会用の版をフォーレ自身が作成し、翌年の4月6日に国民音楽協会の演奏会で初演された。
ペレアスとメリザンド Op.80 (Pelléas et Mélisande,1898年)
別項参照
マスクとベルガマスク Op.112 (Masques et Bergamasques,1919年)
【1. 序曲 / 2. パストラール / 3. マドリガル / 4. いちばん楽しい道 / 5. メヌエット / 6. 月の光 / 7. ガヴォット / 8. パヴァーヌ】
舞台音楽としては最後の作品。ただし、8曲中4曲はすでに作曲されていた他の作品を取り込んだもので、新たに作曲されたのは第1, 2, 5, 7曲のみ。旧作の第6曲、第8曲は単独で演奏され親しまれている。ルネ・フォーショワの台本による。初演は1919年4月10日モンテカルロ。詳細は別項参照。
[編集] 協奏曲
ピアノと管弦楽のためのバラード Op.19 (1880年)
全体は3部からなる。(Andante cantabile - Allegro moderato - Andante ただし第2部は出版譜によりAllegretto moderato)主調は嬰ヘ長調。全曲を通して3つの主題が執拗に反復されるだけの珍しい形式をとっている。初期の未熟さと才能の萌芽が同時に示された作品である。
[編集] 室内楽曲
ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89 (1903 - 06年)
【1. Molto moderato / 2. Adagio / 3. Allegretto moderato】
この作品を作曲していた当時、フォーレは聴覚範囲が狭まり高音と低音がピッチの違う音として聞こえるという聴覚障害に悩まされるようになった。そんな状態でありながらフォーレはこの精妙な和声の造化を創り上げたのだった。1906年3月、作曲者のピアノ、イザイの弦楽四重奏団の演奏で初演され、イザイに献呈された。作曲者の手紙によると、イザイはこの曲の若々しさ、純粋に音楽的であることに狂喜したという。
ピアノ五重奏曲第2番 ハ短調 Op.115 (1919 - 21年)
【1. Allegro moderato / 2. Allegro vivo / 3. Andante moderato / 4. Allegro molto】
1920年にフォーレは音楽院を辞職した。これにより作曲に充てられる時間は増えたものの、経済的な不安を抱え込むことになった。ロベール・ロルタのピアノとエッキャン四重奏団により行われた初演は大成功で聴衆全員のスタンディング・オベーションで迎えられ、批評家からも支持された。この作品は後輩のポール・デュカスに献呈された。
弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.121 (1924年)
【1. Allegro moderato / 2. Andante / 3. Allegro】
フォーレ最後の作品。ピアノを含まない唯一の室内楽作品でもある。そのため深い諦念の響きが色濃い。フォーレはこの作品を弟子に見せ、「君がよく見て、おかしいところがなければ発表してくれ」と頼んだといわれる。彼の謙虚な人柄を物語るエピソードである。初演は作曲者の死後1925年6月12日にパリ音楽院で行われた。
ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 Op.15 (1879年)
【1. Allegro molto moderato / 2. Scherzo / 3. Adagio / 4. Allegro molto】
マリアンヌ・ヴィアルドとの婚約が一方的に破棄され傷心の時期に書かれた作品。長いユニゾンや突然の転調といった音色や調性上の実験的な試みが多くなされている。初演は1880年2月14日に国民音楽協会のコンサートで行われた。
ピアノ四重奏曲第2番 ト短調 Op.45 (1886年)
【1. Allegro molto moderato / 2. Allegro molto / 3. Adagio non troppo / 4. Allegro molto】
フォーレが円熟期を迎えた時期の作品で、名作『レクイエム』の直前に書かれている。楽想、音色の色彩感、展開、いずれも申し分ない豊かさをたたえた名作である。1886年1月22日国民音楽協会のコンサートで初演された。
ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120 (1922 - 23年)
【1. Allegro ma non troppo / 2. Andantino / 3. Allegro vivo】
フォーレ自身はこの作品を「小さなトリオ」と呼んだが、弟子のフローラン・シュミットは「これこそが音楽だ。そして音楽以外の何者でもない。」と評している。公開での初演は1923年6月、アルフレッド・コルトー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルスにより行われた。モーリス・ルーヴィエ夫人に献呈された。
ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 Op.13 (1876年)
【1. Allegro molto / 2. Andante / 3. Allegro vivo / 4. Allegro quasi presto】
歌曲・ピアノ曲以外で初めての本格的な作品。マリアンヌ・ヴィアルドとの恋愛が反映された幸福な作品。マリアンヌの弟ポール・ヴィアルドに献呈されている。初演は、1877年1月27日に国民音楽協会の演奏会でマリー・タヨーのヴァイオリン、作曲者のピアノで初演された。さらに翌年パリ万博の催し物としても演奏されたが、当時はあまり評判にならなかった。しかしサン=サーンスは手紙でフォーレの才能を賞賛している。
ヴァイオリン・ソナタ第2番 ホ短調 Op.108 (1916 - 17年)
【1. Allegro non troppo / 2. Andante / 3. Allegro non troppo】
1916年8月16日付けの手紙で妻に、この作品に着手したことを知らせている。第1番とは40年を隔てて作曲されたこの作品は、第1番とは対照的にフォーレ晩年の簡潔で気品のある書法で書かれている。1917年11月10日国民音楽協会の演奏会でリュシアン・カペーのヴァイオリン、アルフレッド・コルトーのピアノで初演された。
チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109 (1917年)
【1. Allegro / 2. Andante / 3. allegro commodo】
ヴァイオリンソナタ第2番の完成にひきつづいて作曲され、1918年1月にアンドレ・エッキングとアルフレッド・コルトーにより初演された。第1楽章は、フォーレの作品には珍しい荒々しさが見られる。瞑想的な第2楽章を経た第3楽章は控えめだが長大な旋律でチェロの魅力にあふれている。
チェロ・ソナタ第2番 ト短調 Op.117 (1921年)
【1. Allegro / 2. Andante / 3. Allegro vivo】
1921年にフォーレはナポレオン1世没後100年記念式典のための『葬送歌』を吹奏楽用に作曲、これをチェロソナタ第2番の中間楽章に転用した。1922年5月、ジェラール・エッキングとアルフレッド・コルトーによって初演された。ヴァンサン・ダンディは、初演の翌日「一晩たったいまでも、君の美しいチェロソナタに魅了されつづけている。アンダンテは表現力に富み、真の傑作だ」とフォーレに書き送っている。第1楽章のなだらかな曲想のためか、第1番より演奏機会が多い。
シシリエンヌ ト短調 Op.78 (Sicilienne,1898年)
チェロとピアノのための作品。後にペレアスとメリザンドに転用。
『塔の中の奥方』(Une châtelaine en sa tour)イ短調 Op.110 (1918年)
ハープ独奏曲。
[編集] ピアノ曲
『主題と変奏』(Thème et Variations)嬰ハ短調 Op.73 (1895年)
主題と11の変奏からなる。1896年12月、レオン・ドゥラフォスによって初演された。夜想曲第6番、舟歌第5番と同時期の作品であり、これらとともに、フォーレの最も充実したピアノ作品とされる。コルトーは、「音楽的な豊かさ、表現の深さ、器楽的内容の質の高さからして、あらゆる時代のピアノ音楽のうち、希有で最も高貴な記念碑のひとつ」と激賞している。
ピアノ組曲『ドリー』(Dolly)Op.56 (1893 - 96年)
【1. 子守歌 / 2. ミ-ア-ウ / 3. ドリーの庭 / 4. キティー・ヴァルス / 5. 優しさ / 6. スペインの踊り】
4手ピアノのための作品。「ドリー」とは、フォーレが可愛がっていた子供で、この作品を献呈されたエレーヌ・バルダックの愛称である。エレーヌはフォーレの子であるとする説が有力。愛らしいメロディからなる小品集で、子供の世界を描いている点でシューマンの『子供の情景』やドビュッシーの『子供の領分』を連想させる。ちなみにドビュッシーが『子供の領分』を書いた時に題材にしたシュウシュウという愛称の子供は、エレーヌの母親エンマがドビュッシーと再婚してもうけた子供で、したがって、本作品と『子供の領分』とはまさしく姉妹作ということになる。管弦楽版(アンリ・ラボー編曲)、ピアノ独奏版などの編曲でも親しまれている。
ヴァルス・カプリス 全4曲
【1. イ長調 Op.30 / 2. 変ニ長調 Op.38 / 3. 変ト長調 Op.59 / 4. 変イ長調 Op.62】
文字通り才気に満ちたワルツ集である。第1、2番はサロン的側面を持つが、第3、4番は緻密な構成をもち入念な主題処理が行われる、ショパンが開拓した芸術的なピアノ・ワルツの系譜に連なる芸術作品である。
即興曲 全5曲
【1. 変ホ長調 Op.25 / 2. ヘ短調 Op.31 / 3. 変イ長調 Op.34 / 4. 変ニ長調 Op.91 / 5. 嬰ヘ短調 Op.102】
上述の5曲にハープのために書き下ろされピアノに編曲された1曲(変ニ長調、Op.86bis)を含め6曲とカウントすることもある。第3番までと後期に書かれた2曲との間にはそのスタイルに大きな隔たりがある。第3番までの3曲はサン=サーンスの手により初演されている。
夜想曲 全13曲
【1. 変ホ短調 Op.33-1 / 2. ロ長調 Op.33-2 / 3. 変イ長調 Op.33-3 / 4. 変ホ長調 Op.36 / 5. 変ロ長調 Op.37 / 6. 変ニ長調 Op.63 / 7. 嬰ハ短調 Op.74 / 8. 変ニ長調 Op.84-8 / 9. ロ短調 Op.97 / 10. ホ短調 Op.99 / 11. 嬰ヘ短調 Op.104-1 / 12. ホ短調 Op.107 / 13. ロ短調 Op.119】
夜想曲の作曲時期はフォーレの活動時期のすべてにわたっている。第13番はピアノ作品の掉尾を飾る曲である。ピアニストのマルグリット・ロンは第6番を「フォーレの最も美しいインスピレーション」と評している。この第6番と第5番との作曲時期には10年の隔たりがあり、フォーレのスタイルの変化を明らかに反映している。
舟歌 全13曲
【1. イ短調 Op.26 / 2. ト長調 Op.41 / 3. 変ト長調 Op.42 / 4. 変イ長調 Op.44 / 5. 嬰ヘ短調 Op.66 / 6. 変ホ長調 Op.70 / 7. ニ短調 Op.90 / 8. 変ニ長調 Op.96 / 9. イ短調 Op.101 / 10. イ短調 Op.104-2 / 11. ト短調 Op.105-1 /12. 変ホ長調 Op.105-2 / 13. ハ長調 Op.116】
メンデルスゾーンの『無言歌』やショパンにも作例はあるが、生涯にわたって13曲もの『舟歌』を作曲したのはフォーレ一人である。6/8または12/8拍子の一定のリズムにのってゆったりとした旋律が繰り返される中、さざ波や水しぶきそれに反射する光のきらめきのような細やかなパッセージを加える舟歌の形式がフォーレのテンペラメントによく合致したのであろう。第4番まではヴェネツィアを訪れる前に作曲されており、フォーレの憧れとしてのイタリアを描き出したものといわれている。
前奏曲集 Op.103 全9曲 (1910年)
【1. 変ニ長調 / 2. 嬰ハ短調 / 3. ト短調 / 4. ヘ長調 / 5. ニ短調 / 6. 変ホ短調 / 7. イ長調 / 8. ハ短調 / 9. ホ短調】
フォーレがこの前奏曲集を作曲した時期は、ドビュッシーが前奏曲集第1巻を作曲した時期と重なっている。ドビュッシーの作品と異なり、フォーレは作曲意図の手がかりを残していない。フォーレは1910年の1月に最初3曲の前奏曲を出版者に渡しており、同じ年の秋にかけて残りの6曲を作曲した。
父親の死後に作曲された『レクイエム』は彼の代表作の1つである。他の管弦楽や声楽を含んだ大規模作品として、歌劇『ペネロープ』、『プロメテ』、組曲『マスクとベルガマスク』、同『ペレアスとメリザンド』などがある。
しかし、むしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多い。それぞれ2曲ずつのピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタと、各1曲のピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲がある。
また『バラード 作品19』、『主題と変奏 作品73』、『舟歌』、『夜想曲』、『即興曲』、『ヴァルス・カプリス』、『前奏曲 作品109』など生涯にわたって多くのピアノ曲を作った。
歌曲でも『夢のあとに』(Après un rêve)、『イスファハーンの薔薇』(Les roses d'Ispahan)、『祈り』(En prière)、ヴェルレーヌの詩に曲をつけた『月の光』(Clair de lune)、20篇のうち9篇を選んで作曲した『優しい歌』(La Bonne Chanson)などかなりの数の歌曲を残している。
晩年には、難聴に加えて高い音がより低く、低い音がより高く聞こえるという症状に悩まされながら作曲をつづけた。ピアノ五重奏曲第1番以降の作品は、そうした時期のもので、次第により簡潔で厳しい作風へと向かっていった。
肺炎のためパリで死去。マドレーヌ教会で『レクイエム』の演奏されるなか国葬が行われ、パリのパッシー墓地に葬られた。
[編集] フォーレの音楽の特徴
[編集] 音楽史的な位置
フォーレは、リスト、ベルリオーズ、ブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、無調の作品が数多く書かれ、微分音、十二音技法などが試みられていたころに晩年を迎えている。なかでも、調性崩壊の引き金を引いたワーグナーの影響力は絶大で、同時代の作曲家は多かれ少なかれ、ワーグナーにどう対処するかを迫られた。
こうした流れのなかで、フォーレの音楽は、折衷的な様相を見せる。ワーグナーに対しては、ドビュッシーのようにその影響を拒否するのでなく、歌劇『ペネロープ』でライトモティーフを採用するなど一定の影響を受けつつも、その亜流とはならなかった。形式面では、サン=サーンスの古典主義に引きこもることはしなかったが、その作品形態は当時の流行を追わず、古典主義的な楽曲形式を採用した。調性においては、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。
このように、フォーレは音楽史上に残るような新たな様式を打ち立てたり、「革新」をもたらしたりしてはいない。また、フォーレの音楽は、劇的表現をめざすものではなかったので、大規模管弦楽を擁する大作は必然的に少ない。ただし、和声の領域では、フォーレはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしている。とくに、調性と旋法性の融合という点において、フォーレの和声には独自性が見られ、まさに時を越えた作曲家なのである。
[編集] フォーレの音楽の変遷
フォーレの音楽は、便宜的に初期・中期・晩年の三期に分けられることが多い。初期の代表作として、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品13)やピアノ四重奏曲第1番(作品15)があるが、この時期の作品は親しみやすく、とくにヴァイオリン・ソナタ第1番は、フォーレの全作品中おそらくもっとも演奏機会の多い曲である。夜想曲では第1番から第5番、舟歌では第1番から第4番が相当する。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっている。旋律を歌わせる際にはユニゾン、伴奏形には装飾的かつ流動的なアルペジオが多用される。ユニゾンとアルペジオは、フォーレの生涯にわたって特徴的に見られるが、この時期のそれは、もっぱら音色の効果や装飾性の域を脱するものではない。チェロとピアノのための『エレジー』(作品24)では、中期を予想させる精神性がかいま見られる。
フォーレの中期あるいは第二期は、ピアノ四重奏曲第2番(作品45)、『レクイエム』(作品48)、『パヴァーヌ』(作品50)などが作曲された1880年代の後半から、ピアノ五重奏曲第1番(作品89)が完成した1900年代前半までと見られ、他に『主題と変奏』(作品73)、『ペレアスとメリザンド』(作品80)などがある。夜想曲では第6番から第8番、舟歌では第5番から第7番が相当する。初期の曲に見られる、輝かしく外面的な要素は、年を経るに従って次第に影を潜め、より息の長い、求心的で簡素化された語法へと変化していく。初期の音楽と比べて、これをフォーレの「後退」とみる評者もある。また、ひとつひとつの音を保ちながら、和声をより流動的に扱うことにより、拍節感は崩れ、内声部は半音階的であいまいな調性で進行するようになる。こうした微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。
歌劇『ペネロープ』やヴァイオリン・ソナタ第2番(作品108)が作曲された1900年代後半からは、晩年と見られる。夜想曲では第9番以降、舟歌では第8番以降。耳の障害が始まり、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていく。しかし、この時期の一連の室内楽作品は、壮大な規模と深い精神性を湛えた傑作群である。ピアノ五重奏曲第2番(作品115)やピアノ三重奏曲(作品120)では、冒頭にピアノによるアルペジオが見られるが、もはや華やかさとは無縁の、単純化された音型であり、弦のユニゾンもまた、抽象的な高みへの追求あるいは収斂性として働いている。最晩年に作曲された弦楽四重奏曲(作品121)は、唯一ピアノを含まない室内楽作品であるが、輪郭のはっきりとしたピアノの打音が退けられた結果、音楽はより幽玄な情緒を帯びており、ときに晦渋な作風を印象づける。
[編集] アール・ヌーヴォーとの関連
フォーレ研究家として知られるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書『ガブリエル・フォーレ』のなかで、同時代の文学者マルセル・プルーストがフォーレの音楽に魅了されていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォーに属する芸術家として位置づけた上で、「そのまがりくねり互いに絡み合った長いフレーズと常時現れる花にまつわる主題は、まさに1900年の芸術を象徴するものである。」と述べている。
一般に、アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭の装飾美術・デザインに適応される様式概念であり、ネクトゥーの説はこれを文学、音楽に敷衍させたものといえる。この指摘は、アール・ヌーヴォーのもつ装飾性や、コントラストでなく曲線重視といった表現性を、フォーレの音楽性と通じるものとしてみている。この観点からは、フォーレの別の側面が見えてくることも事実である。装飾的な音型がメロディーに同化している点で、初期の歌曲『夢のあとに』がまず挙げられる。さらに、「舟歌」をはじめとして、アルペジオへのフォーレの傾斜は、晩年まで見られる特徴である。ただし、「装飾音」であっても、その効果あるいは意図するところは、すでに述べたように、初期と晩年では相当に違っている。
[編集] フォーレは「サロン音楽」の作曲家か
フォーレは、当時のサロンで受け入れられたため、ドビュッシーを初めとして、フォーレの作品を「サロン音楽」と矮小化して受けとめる風潮も現在まで存在する。もちろん、フォーレの音楽に、サロンで受け入れられるべき要素が含まれていることは否定できない。とはいえ、フォーレの音楽は、とくに中期から晩年にかけてのそれは、規模の小さな作品においても、ただ柔らかく上品で、洗練されているというだけで終わってはいない。ごく自然に流れる音の流れが、実は伝統的なあらゆる手法を駆使した、独自の緻密な構成によっている。
1906年に、フォーレは妻にあてた手紙でピアノ四重奏曲第2番のアダージョ楽章について触れ、「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」と書いている。また、1908年には次男フィリップに「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と書き残している。このように、フォーレの音楽には、現実を超えた高みへの憧れが盛り込まれ、これに耳を傾ける者の感動を誘うのである。
フォーレは死の2日前、二人の息子に次のような言葉を残している。「私がこの世を去ったら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ……」
[編集] 教育者としてのフォーレ
フォーレは1896年にマスネの後任としてパリ音楽院の作曲科教授となっており、その門弟にはモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス、ジョルジェ・エネスクらがいる。
ラヴェルがローマ大賞を落選した、いわゆる「ラヴェル事件」により1905年にはテオドール・デュボワの後任として音楽院院長となり(1920年まで)、音楽院改革を行った結果《ロベスピエール》とあだ名されるようになったが、このときの改革のうち入学前の生徒の教授との癒着を避けるため、音楽院の外部者に入学審査を行わせたことは、現在でも入学審査に必ず音楽院の外部者が加わっているというかたちで受け継がれている。このように彼は優れた音楽教育者としても知られている。
[編集] フォーレの女性関係
『レクイエム』で知られ、教会オルガニストであったことから敬虔なカトリック教徒というイメージが強いが、フォーレ自身、必ずしもそうでないことを認めている[1]。
実際、若いころのフォーレは享楽的な傾向を持ち、1883年に彫刻家エマニュエル・フルミエの娘、マリーと結婚した後も、90年代前半はのちにドビュッシー夫人となったエンマ・バルダックと、後半はイギリスの楽譜出版社の夫人のアディーラ・マディソンと関係を持ち、そして1900年『プロメテ』初演時にアルフォンス・アッセルマン(ハーピスト・作曲家)の娘、マルグリット・アッセルマンと出逢い、そののち彼女を生涯旅行などに付き添わせるといった愛人たちとの交際を続けた。
[編集] 主要作品
以下「Op.」以下の数字は作品番号を示す。
[編集] 管弦楽曲
カリギュラ Op.52 (Caligula,1888年)
舞台音楽の最初の作品。大デュマの同名の悲劇再演のために小デュマから依頼を受け、わずか数ヶ月で書き上げた。劇付随音楽としての初演は1888年11月8日。その後、演奏会用の版をフォーレ自身が作成し、翌年の4月6日に国民音楽協会の演奏会で初演された。
ペレアスとメリザンド Op.80 (Pelléas et Mélisande,1898年)
別項参照
マスクとベルガマスク Op.112 (Masques et Bergamasques,1919年)
【1. 序曲 / 2. パストラール / 3. マドリガル / 4. いちばん楽しい道 / 5. メヌエット / 6. 月の光 / 7. ガヴォット / 8. パヴァーヌ】
舞台音楽としては最後の作品。ただし、8曲中4曲はすでに作曲されていた他の作品を取り込んだもので、新たに作曲されたのは第1, 2, 5, 7曲のみ。旧作の第6曲、第8曲は単独で演奏され親しまれている。ルネ・フォーショワの台本による。初演は1919年4月10日モンテカルロ。詳細は別項参照。
[編集] 協奏曲
ピアノと管弦楽のためのバラード Op.19 (1880年)
全体は3部からなる。(Andante cantabile - Allegro moderato - Andante ただし第2部は出版譜によりAllegretto moderato)主調は嬰ヘ長調。全曲を通して3つの主題が執拗に反復されるだけの珍しい形式をとっている。初期の未熟さと才能の萌芽が同時に示された作品である。
[編集] 室内楽曲
ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89 (1903 - 06年)
【1. Molto moderato / 2. Adagio / 3. Allegretto moderato】
この作品を作曲していた当時、フォーレは聴覚範囲が狭まり高音と低音がピッチの違う音として聞こえるという聴覚障害に悩まされるようになった。そんな状態でありながらフォーレはこの精妙な和声の造化を創り上げたのだった。1906年3月、作曲者のピアノ、イザイの弦楽四重奏団の演奏で初演され、イザイに献呈された。作曲者の手紙によると、イザイはこの曲の若々しさ、純粋に音楽的であることに狂喜したという。
ピアノ五重奏曲第2番 ハ短調 Op.115 (1919 - 21年)
【1. Allegro moderato / 2. Allegro vivo / 3. Andante moderato / 4. Allegro molto】
1920年にフォーレは音楽院を辞職した。これにより作曲に充てられる時間は増えたものの、経済的な不安を抱え込むことになった。ロベール・ロルタのピアノとエッキャン四重奏団により行われた初演は大成功で聴衆全員のスタンディング・オベーションで迎えられ、批評家からも支持された。この作品は後輩のポール・デュカスに献呈された。
弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.121 (1924年)
【1. Allegro moderato / 2. Andante / 3. Allegro】
フォーレ最後の作品。ピアノを含まない唯一の室内楽作品でもある。そのため深い諦念の響きが色濃い。フォーレはこの作品を弟子に見せ、「君がよく見て、おかしいところがなければ発表してくれ」と頼んだといわれる。彼の謙虚な人柄を物語るエピソードである。初演は作曲者の死後1925年6月12日にパリ音楽院で行われた。
ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 Op.15 (1879年)
【1. Allegro molto moderato / 2. Scherzo / 3. Adagio / 4. Allegro molto】
マリアンヌ・ヴィアルドとの婚約が一方的に破棄され傷心の時期に書かれた作品。長いユニゾンや突然の転調といった音色や調性上の実験的な試みが多くなされている。初演は1880年2月14日に国民音楽協会のコンサートで行われた。
ピアノ四重奏曲第2番 ト短調 Op.45 (1886年)
【1. Allegro molto moderato / 2. Allegro molto / 3. Adagio non troppo / 4. Allegro molto】
フォーレが円熟期を迎えた時期の作品で、名作『レクイエム』の直前に書かれている。楽想、音色の色彩感、展開、いずれも申し分ない豊かさをたたえた名作である。1886年1月22日国民音楽協会のコンサートで初演された。
ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120 (1922 - 23年)
【1. Allegro ma non troppo / 2. Andantino / 3. Allegro vivo】
フォーレ自身はこの作品を「小さなトリオ」と呼んだが、弟子のフローラン・シュミットは「これこそが音楽だ。そして音楽以外の何者でもない。」と評している。公開での初演は1923年6月、アルフレッド・コルトー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルスにより行われた。モーリス・ルーヴィエ夫人に献呈された。
ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 Op.13 (1876年)
【1. Allegro molto / 2. Andante / 3. Allegro vivo / 4. Allegro quasi presto】
歌曲・ピアノ曲以外で初めての本格的な作品。マリアンヌ・ヴィアルドとの恋愛が反映された幸福な作品。マリアンヌの弟ポール・ヴィアルドに献呈されている。初演は、1877年1月27日に国民音楽協会の演奏会でマリー・タヨーのヴァイオリン、作曲者のピアノで初演された。さらに翌年パリ万博の催し物としても演奏されたが、当時はあまり評判にならなかった。しかしサン=サーンスは手紙でフォーレの才能を賞賛している。
ヴァイオリン・ソナタ第2番 ホ短調 Op.108 (1916 - 17年)
【1. Allegro non troppo / 2. Andante / 3. Allegro non troppo】
1916年8月16日付けの手紙で妻に、この作品に着手したことを知らせている。第1番とは40年を隔てて作曲されたこの作品は、第1番とは対照的にフォーレ晩年の簡潔で気品のある書法で書かれている。1917年11月10日国民音楽協会の演奏会でリュシアン・カペーのヴァイオリン、アルフレッド・コルトーのピアノで初演された。
チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109 (1917年)
【1. Allegro / 2. Andante / 3. allegro commodo】
ヴァイオリンソナタ第2番の完成にひきつづいて作曲され、1918年1月にアンドレ・エッキングとアルフレッド・コルトーにより初演された。第1楽章は、フォーレの作品には珍しい荒々しさが見られる。瞑想的な第2楽章を経た第3楽章は控えめだが長大な旋律でチェロの魅力にあふれている。
チェロ・ソナタ第2番 ト短調 Op.117 (1921年)
【1. Allegro / 2. Andante / 3. Allegro vivo】
1921年にフォーレはナポレオン1世没後100年記念式典のための『葬送歌』を吹奏楽用に作曲、これをチェロソナタ第2番の中間楽章に転用した。1922年5月、ジェラール・エッキングとアルフレッド・コルトーによって初演された。ヴァンサン・ダンディは、初演の翌日「一晩たったいまでも、君の美しいチェロソナタに魅了されつづけている。アンダンテは表現力に富み、真の傑作だ」とフォーレに書き送っている。第1楽章のなだらかな曲想のためか、第1番より演奏機会が多い。
シシリエンヌ ト短調 Op.78 (Sicilienne,1898年)
チェロとピアノのための作品。後にペレアスとメリザンドに転用。
『塔の中の奥方』(Une châtelaine en sa tour)イ短調 Op.110 (1918年)
ハープ独奏曲。
[編集] ピアノ曲
『主題と変奏』(Thème et Variations)嬰ハ短調 Op.73 (1895年)
主題と11の変奏からなる。1896年12月、レオン・ドゥラフォスによって初演された。夜想曲第6番、舟歌第5番と同時期の作品であり、これらとともに、フォーレの最も充実したピアノ作品とされる。コルトーは、「音楽的な豊かさ、表現の深さ、器楽的内容の質の高さからして、あらゆる時代のピアノ音楽のうち、希有で最も高貴な記念碑のひとつ」と激賞している。
ピアノ組曲『ドリー』(Dolly)Op.56 (1893 - 96年)
【1. 子守歌 / 2. ミ-ア-ウ / 3. ドリーの庭 / 4. キティー・ヴァルス / 5. 優しさ / 6. スペインの踊り】
4手ピアノのための作品。「ドリー」とは、フォーレが可愛がっていた子供で、この作品を献呈されたエレーヌ・バルダックの愛称である。エレーヌはフォーレの子であるとする説が有力。愛らしいメロディからなる小品集で、子供の世界を描いている点でシューマンの『子供の情景』やドビュッシーの『子供の領分』を連想させる。ちなみにドビュッシーが『子供の領分』を書いた時に題材にしたシュウシュウという愛称の子供は、エレーヌの母親エンマがドビュッシーと再婚してもうけた子供で、したがって、本作品と『子供の領分』とはまさしく姉妹作ということになる。管弦楽版(アンリ・ラボー編曲)、ピアノ独奏版などの編曲でも親しまれている。
ヴァルス・カプリス 全4曲
【1. イ長調 Op.30 / 2. 変ニ長調 Op.38 / 3. 変ト長調 Op.59 / 4. 変イ長調 Op.62】
文字通り才気に満ちたワルツ集である。第1、2番はサロン的側面を持つが、第3、4番は緻密な構成をもち入念な主題処理が行われる、ショパンが開拓した芸術的なピアノ・ワルツの系譜に連なる芸術作品である。
即興曲 全5曲
【1. 変ホ長調 Op.25 / 2. ヘ短調 Op.31 / 3. 変イ長調 Op.34 / 4. 変ニ長調 Op.91 / 5. 嬰ヘ短調 Op.102】
上述の5曲にハープのために書き下ろされピアノに編曲された1曲(変ニ長調、Op.86bis)を含め6曲とカウントすることもある。第3番までと後期に書かれた2曲との間にはそのスタイルに大きな隔たりがある。第3番までの3曲はサン=サーンスの手により初演されている。
夜想曲 全13曲
【1. 変ホ短調 Op.33-1 / 2. ロ長調 Op.33-2 / 3. 変イ長調 Op.33-3 / 4. 変ホ長調 Op.36 / 5. 変ロ長調 Op.37 / 6. 変ニ長調 Op.63 / 7. 嬰ハ短調 Op.74 / 8. 変ニ長調 Op.84-8 / 9. ロ短調 Op.97 / 10. ホ短調 Op.99 / 11. 嬰ヘ短調 Op.104-1 / 12. ホ短調 Op.107 / 13. ロ短調 Op.119】
夜想曲の作曲時期はフォーレの活動時期のすべてにわたっている。第13番はピアノ作品の掉尾を飾る曲である。ピアニストのマルグリット・ロンは第6番を「フォーレの最も美しいインスピレーション」と評している。この第6番と第5番との作曲時期には10年の隔たりがあり、フォーレのスタイルの変化を明らかに反映している。
舟歌 全13曲
【1. イ短調 Op.26 / 2. ト長調 Op.41 / 3. 変ト長調 Op.42 / 4. 変イ長調 Op.44 / 5. 嬰ヘ短調 Op.66 / 6. 変ホ長調 Op.70 / 7. ニ短調 Op.90 / 8. 変ニ長調 Op.96 / 9. イ短調 Op.101 / 10. イ短調 Op.104-2 / 11. ト短調 Op.105-1 /12. 変ホ長調 Op.105-2 / 13. ハ長調 Op.116】
メンデルスゾーンの『無言歌』やショパンにも作例はあるが、生涯にわたって13曲もの『舟歌』を作曲したのはフォーレ一人である。6/8または12/8拍子の一定のリズムにのってゆったりとした旋律が繰り返される中、さざ波や水しぶきそれに反射する光のきらめきのような細やかなパッセージを加える舟歌の形式がフォーレのテンペラメントによく合致したのであろう。第4番まではヴェネツィアを訪れる前に作曲されており、フォーレの憧れとしてのイタリアを描き出したものといわれている。
前奏曲集 Op.103 全9曲 (1910年)
【1. 変ニ長調 / 2. 嬰ハ短調 / 3. ト短調 / 4. ヘ長調 / 5. ニ短調 / 6. 変ホ短調 / 7. イ長調 / 8. ハ短調 / 9. ホ短調】
フォーレがこの前奏曲集を作曲した時期は、ドビュッシーが前奏曲集第1巻を作曲した時期と重なっている。ドビュッシーの作品と異なり、フォーレは作曲意図の手がかりを残していない。フォーレは1910年の1月に最初3曲の前奏曲を出版者に渡しており、同じ年の秋にかけて残りの6曲を作曲した。




